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薩摩に潜入した熊本藩のスパイは地侍だった!城の石垣や門の構造など報告

2023年11月3日 19:08
薩摩に潜入した熊本藩のスパイは地侍だった!城の石垣や門の構造など報告

今年5月に熊本大学が公開した史料。江戸時代に細川家の密偵=今でいう“スパイ”が作成した報告書です。

作ったのは村田門左衛門という人物。何者なのかは謎のままでしたが、熊本大学は10月、鹿児島と接していた当時の葦北郡に住む地侍だったと発表しました。

熊本藩細川家の密偵、村田門左衛門が記した報告書。1651年に薩摩へ派遣された時の情報が記録されています。書かれているのは初期の薩摩藩の情報。当時の鹿児島城の石垣や門の構築状況、洪水による被害の記録、また薩摩藩によって摘発された一向宗信者が、屋久島をはじめとする離島に流罪とされていたことなどが18項目に分けて記されています。

当時、幕府から海外貿易の場の管理を任されていたことから、外国との結託が警戒されていた鹿児島藩。薩摩・島津家を抑えることが、熊本・細川家の重要な役割でした。

監視や情報収集役として細川家が派遣したのが村田門左衛門。しかし、当時の細川家臣団の名簿には記載されていらず、いったい何者なのかは謎のままでした。

明らかになった"密偵"村田門左衛門の正体

5月の報告書の発表から5か月あまり。ついに、その正体が明らかになりました。

■熊本大学永青文庫研究センター 稲葉継陽センター長
「村田門左衛門の村田家は、細川家中の侍ではなく、戦国時代から葦北郡内に住み、加藤清正にも仕えた地侍だった」

現在の八代市日奈久から、鹿児島県と隣接する水俣市までを含む当時の葦北郡。西の天草・南の薩摩・東の相良の動向を監視するため、武士の身分でこの地に配置されたのが「地侍」です。

村田門左衛門は460人ほどいた地侍の1人だったというのです。

きっかけは子孫からの連絡

5月の報道を見た水俣市在住の梅下俊克さんが、「自分の先祖が村田門左衛門と名乗っていた」と熊本大学に連絡。古文書などの調査から、熊本大学が裏付けを取りました。

調査で新たに分かったのは、村田門左衛門の父親、与兵衛は、葦北郡内に住みながら加藤清正にも仕えていた地侍で、加藤家改易の後に熊本藩主になった細川家にも、そのまま地侍として仕え、門左衛門と改名しました。そして、息子の門左衛門が、薩摩に派遣された密偵4人のうち1人でした。任務を果たした門左衛門は褒美として5石を加増され、その後も代々、地侍として仕えたということです。

■村田門左衛門の子孫 梅下俊克さん
「親戚のおばさんたちから昔話として聞いてきた話が、歴史資料との関連性が解明された。親族の者たちも“一族の誉れ”として喜んでいることと思います」

江戸の歴史の中で初めて脚光を浴びた1人の地侍。熊本大学は、今回の発見が藩と藩の境界に住む人たちが果たした役割をたどるきっかけになると期待しています。