【特集】”和解”に応じなかった原告・飯塚淳子さん(仮名) 強制不妊手術を受けさせられたのは16歳 全国の『旧優生保護法』訴訟のきっかけになった女性
24日の和解に応じなかった原告の飯塚淳子さん(仮名)が、強制不妊手術を受けさせられたのは16歳の時だった。
27年前に被害の声を上げ、全国での『旧優生保護法』訴訟のきっかけとなった。
24日朝。
「おはようございます」
原告の飯塚淳子さん(仮名)だ。
今は、宮城県内の集合住宅で一人暮らし。
伝えたい思いを、文章にしていた。
飯塚淳子さん(仮名)
「いろいろ思いがあります。きちんとして欲しい。最後きちんと」
運動会で元気な姿を見せるのは、15歳の飯塚さん。
この1年後、16歳の時に強制的に不妊手術を受けさせられた。
大人になって父親から受け取った手紙には、こう記されていた。
やむなく印鑑を押させられたー。
優生保護法にしたがってやられたー。
『旧優生保護法』は1948年~1996年まで存在し、障害などを理由に強制的に不妊手術を行うことを認めた法律。
当時のニュース)(宮城)県内に住む女性が、国などに対して謝罪と補償を求める声を上げています
当時の飯塚さん)苦しいです。毎日泣いて暮らしています
これは25年前のミヤギテレビのニュース映像。
当時のニュース)親の承諾だけで、彼女は強制的に不妊手術を受けさせられました
当時の飯塚さん)もし中身分かっていたら、手術はしなかったと思います
当時のニュース)手術のいきさつを知りたい。彼女はたった一人で活動を始めています
当時のニュース)しかし、手術を受けた病院はすでに道路に変わり、手術をした医者や父親など事実を知る数少ない当事者はすでに亡くなった。また、宮城県や仙台市に開示を求めた手術のカルテなどは、すでに破棄されていた。彼女のやり場のない怒りが、担当者に向けられる。
当時の飯塚さん)人をどれだけ苦しめればいいのか、いい加減に片づけて。ちゃんと開示してよ、全部苦しい思いをしてきたんですよここまで
飯塚さんは、かつては結婚をしていた時期もあった。
しかし、夫に子どもを産めないことを打ち明けると飯塚さんのもとから去っていったという。
飯塚さん
「なんで間違ったことをやるのか。障害者は不良の子孫って、不良じゃないと思います。なんで決めつけて、なんで優生保護をやってきたのか」
飯塚さんが、国を訴えてから6年。
今年7月、最高裁判所は「旧優生保護法は憲法違反」と判断し、国の賠償責任を認める統一判断を示した。
判決から2週間後、岸田首相は原告団と面会した。
岸田首相
「政府の責任は極めて重大なものがあり、お一人お一人に深く深く謝罪申し上げます」
飯塚さんも、直接謝罪を受けた。
9月には、国と原告団は和解に向けた合意書も取り交わした。
飯塚さん
「私が求め続けてきたことがやっと実現しました。しかし、私たちの気持ちは晴れません」
賠償がなされても、傷ついた体と人生は2度と取り戻すことはできない。
飯塚さんが、被害を支援団体に訴えてから27年が経った。
飯塚さん
「長かったね、本当に長かった。みなさんが名乗り出て裁判になって、よかったと思っていま。」
『旧優生保護法』もと強制的に不妊手術を受けさせられたのは、全国でおよそ2万5000人、宮城県は全国で2番目に多いおよそ1400人。
ずっと支えてきた弁護士は、飯塚さんの訴えがなければ全国各地での一連の裁判にはつながらなかったと話す。
そして、24日午後2時から裁判所で和解の調停が行われた。
しかし、飯塚さんは和解に応じなかった。
新里弁護士
「手術で人生を狂わされたという思い。今これでこのくらいの説明だけで決めていいのか決断が出来ていないのかなと。弁護団として寄り添いたい。焦る必要はないので、本人が納得できると思ったところで和解になればいい」