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【特集】「『完治という言葉がない』と言われ絶望」“体操のひろみちお兄さん”こと佐藤弘道さんを突如襲った『脊髄梗塞』 下半身麻痺による過酷な闘病と死すら考えた“どん底”の日々…支えとなった家族との絆と、妻・久美子さんが初めて伝える想い

2024年9月16日 19:00
【特集】「『完治という言葉がない』と言われ絶望」“体操のひろみちお兄さん”こと佐藤弘道さんを突如襲った『脊髄梗塞』 下半身麻痺による過酷な闘病と死すら考えた“どん底”の日々…支えとなった家族との絆と、妻・久美子さんが初めて伝える想い
笑顔はじける“ひろみちお兄さん”

 『脊髄梗塞(せきずいこうそく)』により下半身麻痺(まひ)となったことを公表した、“ひろみちお兄さん”こと佐藤弘道さん。突然の病魔に絶望を感じた日々・壮絶なリハビリ生活・支えとなった家族とのエピソードなどを語っていただきました。発症から3か月間、最も近くにいた妻・久美子さんが抱えていた後悔と葛藤、そして心に秘めていた願いとは―。

■日本中に衝撃が走った、突然の病の公表…その裏にあった想いとは―

 2024年6月13日、佐藤弘道さんは直筆のメッセージで『脊髄梗塞』を公表しました。

Q.公表された理由について、聞かせていただけますか?
(佐藤弘道さん)
「レギュラー番組があって、1週目は体調不良で休ませていただきました。丸6年1回も休んでいない佐藤弘道が2週目も体調不良で…というのは、さすがに隠し通せないと思って、事務所の人とも相談して『公表しよう』となりました。直筆で発表したことによって、きちんと病気と向き合え、気持ちが切り替わったので、そういう意味では直筆で発表できて良かったと思います」

Q.応援の手紙などは、たくさん来ましたか?
(佐藤さん)
「たくさん頂いて、すごく励みになりました。本当に、ありがとうございました。また、今回病院などでお世話になった若い子たちが、みんな“ひろみちチルドレン”で、子どもの頃に僕がお世話した子たちが、今度は僕のことをお世話してくれた状況だったので、前を向くしかないと思いました(笑)」

■佐藤弘道さんも“筋肉痛”かと思った、『脊髄梗塞』の気付きにくい“前兆”とは?

 大阪医療センター脳神経内科 科長・岡﨑周平医学博士によると、佐藤さんが発症した『脊髄梗塞』とは、脊髄に流れる血管が詰まることで神経が機能しなくなる病です。麻痺・筋力低下・感覚障害などの症状を引き起こしますが、今現在も有効な治療法が確立されていません。

 入院する2日前に異変を感じていたと言う佐藤さん。「テレビ番組の収録で筋トレの実演をした後、背中が痛くなり、妻に湿布を貼ってもらった。結構痛かったが、筋肉痛かと思った」と振り返ります。

Q.その時は、さほど重大なことだとは思っていなかったですか?
(佐藤さん)
「仕事柄、筋肉痛は当たり前なので、特に気にしていなかったです。妻にも湿布を貼ってもらったし、翌日には、もう痛みがなかったので」

 岡﨑医学博士によると、「これが“前兆”だったかはわからないが、直前に背中などに痛みを感じるケースがある。一方で、痛みを感じることなく、気が付いたら体が麻痺してしまっているケースをもある」ということです。

■「寝相が悪かったのかな?」朝、左足に感じた“しびれ”が数時間後には急変「激痛が走り、足の感覚が全くなくなった」

 その2日後の2024年6月2日・早朝。佐藤さんによると、鳥取での研修会に参加するため自宅で準備していると、左足に“しびれ”を感じたといいます。そして、荷物を持ち上げようと踏ん張った際に、リビングで転倒しました。

Q.足のしびれ・転倒などは、過去にもありましたか?
(佐藤さん)
「一切ないです。この日は、朝起きた時から左足がぷっくり浮腫んでいるような感じで、しびれていました。でも、『寝相が悪かったのかな?』と思うぐらいで。それで、リビングで荷物を運ぼうと思った時に、本当に“左足だけ泥沼に落ちる”ようにカクンッと落ちて、一人で転びました。それを妻も見ていたのですが、二人とも特に気にすることなく、『転んじゃった~』ぐらいでした」

 しかし、自宅を出て、東京・羽田空港に到着後に急変します。気持ち悪さと腰回りに激痛が走り、機内でも腰や背中に耐えられないほどの痛みを感じました。鳥取到着後、立ち上がろうとすると、下半身が麻痺していて足の感覚が全くなかったといいます。

Q.飛行機に乗る前に、痛みを感じていたんですか?
(佐藤さん)
「いつも朝早い時は、空港内で朝ごはんを探しに行くんですけど、この時はそんな気力もなく、待合室でずっと腰が痛くてしょうがなかったです。足を引きずるようにして飛行機に乗りましたが、機内でも冷や汗と痛みで大変でした」

Q.鳥取到着後は、立ち上がれなかったのですか?
(佐藤さん)
「立ち上がろうと思った時には、既に感覚がなかったです。CAさんに車いすを用意していただいたんですが、通路が狭くて、自分の席まで車イスが来られなくて、一番前の席まで、もう腕だけで這って行くような感じで。それを妻が後ろから見て、初めて『やばい』と思ったようです」

■「窓を見て“ここから飛び降りてしまおう”とまで…」完治という言葉がない“絶望”

 鳥取空港から病院へ向かい、緊急入院となった佐藤さん。「仰向けでベッドに寝て、トイレにも行けず、尿道に管を入れてもらった。最初は、オムツを外すこともできなかった」といいます。

 診察の結果、『脊髄梗塞』の疑いがあると告げられ、約2週間後、正式に診断されました。

 佐藤さんは、「初めて聞く病名で、医師からも『稀な病気で完治という言葉がない』と言われ、“一生、車いす生活なんだ…”と絶望した。体の自由を奪われたことで、一時は病室の窓を見て“いっそ、ここから飛び降りてしまおう”とまで考えた」と、当時の心境を吐露しています。

Q.仕事のこと・ご家族のことなど、いろいろお思いになったでしょうね。
(佐藤さん)
「相当落ち込みました。家族にも、これから一生迷惑かけるだろうということもあるし、自分がやりたいことも全てできなくなってしまったので、絶望のどん底という感じでした」

■「一歩でも前に行けるように…」入院後すぐに始まった壮絶なリハビリ生活、ついたあだ名は“鬼の佐藤”

 入院後は、すぐにリハビリが始まりました。下半身が全く動かず、まずは足の指先を動かすことから。右足の麻痺が治り始めてからは、右足の上げ下げ。そして、平行棒や歩行器を使っての歩行練習をしたといいます。

Q.入院後、すぐにリハビリが始まるんですね?
(佐藤さん)
「脊髄梗塞の場合、リハビリは早ければ早いほど良いということだったので、下半身はほとんど動かなかったんですが、入院して3~4日目にはリハビリを始めていました」

 妻・久美子さんによると、「『絶対に歩くんだ』という強い意志で、寝ている時以外はリハビリしているような状態。必死の形相でリハビリする様子を見た周囲からは、“鬼の佐藤さん”と呼ばれていた」といいます。

Q.今もされていると聞いていますが、リハビリはつらいものでしたか?
(佐藤さん)
「そうですね。今も継続的にはやっているんですけど、最初は何もできなかったので、肉体的にも精神的も本当にきつかったです。1か月で5kg落ちて、それだけ筋力も低下していたので、それを取り戻すのも大変でした」

Q.必死でリハビリをして“鬼の佐藤さん”と呼ばれていたということですが、ご家族がいらして、前向きになられたのもありましたか?
(佐藤さん)
「一歩でも歩ければ家に近づけるでしょうし、一回でも自転車を漕げればまた皆に会えるだろうし…ということを考えながら、一つでも一歩でも前に行けるように、リハビリは頑張っていました」

■「いつもの佐藤家らしい笑顔で」落ち込む夫妻を救ったのは、2人の息子たち

 つらい闘病生活を支えてくれたのは、ご家族の存在でした。

(佐藤さんの妻・久美子さん)
「リハビリが始まってからは、もう本当にすごい。例えば、先生が『もう今日はここまで』と言ったら、『あと5分、お願いします。あと10分、お時間があれば、お願いします』と言っていたみたいで。“追い込みの佐藤”と言われていて(笑)」

 佐藤さんと久美子さんは、連れ添って30年。入院当初、今まで見たことがない夫の姿を目にしていました。

(久美子さん)
「あれだけ体育会系で、本当にネガティブなことを言わない人が、『もう俺は一生車いすで、迷惑をかけてしまう』『ごめんなさい』しか言えない」

 「迷惑をかけてごめん」―毎日のようにその言葉を繰り返す夫を前に、久美子さんは“自分の落ち度”を探し、後悔の念に苛まれることもあったといいます。

(久美子さん)
「発症を考えると、朝から兆候があったので、今思うと、私がそこで止めて、息子を呼んだり、救急車を呼んだりして、もし手当てができていたら、もしかすると…って」

 しかし、暗くなりがちな空気を変えてくれたのは、2人の息子でした。

(久美子さん)
「病室のカーテンをバッて開けたら、目の前のソファに『Uber Eatsです』と言って長男がいて、『こちら臭い付きのお父さんの靴下を持ってきました』って言って(笑)もう号泣で、主人が号泣で、抱き合って…」

 家族総出で取り組んだ『パパをポジティブにしよう』キャンペーン。やがて、佐藤さんの心に、変化が訪れます。

(久美子さん)
「本当にポジティブで楽しくなったので、カーテンを開けた光の中で上半身を鍛えている裸の写真が上げられた時に、『あ、もう大丈夫かな』と」

 佐藤さんは本来の明るさを取り戻し、リハビリも懸命に取り組みました。

 実は、この2か月余りの入院期間中、久美子さんと子どもたちの間には、ある約束があったといいます。

(久美子さん)
「『頑張って』は、あまり言えなかったです。多分、本人が一番頑張っているので、私たち3人は、主人の前では一回も涙は見せていないです。毎日、いつもの佐藤家らしい笑顔で、何があっても笑顔で返すみたいな」

 最後に、久美子さんから佐藤さんへ、退院後も伝えられずにいた“想い”を語っていただきました。

(久美子さん)
「早期退院、本当におめでとうございます。当たり前だったことが当たり前じゃなくなっちゃったけど、本当に、一緒に今こうやっていられることが…」

 涙を堪えきれなくなる久美子さん。

(久美子さん)
「まだ恥ずかしくて、退院してから一緒に手をつないでお外には出ていないので、体育会系の私たちはあまり手をつないで外に出ることはないんですけど、もしよかったら、これを機に“中高年のおじいちゃん・おばあちゃん”になった気分で、手をつないで一緒に歩きたいなと、今すごく思っています。仕事の缶詰めになり過ぎず、自分でやりたいことを見つけて、それを私たちが一緒にサポートできればいいなと思っているので、これからも一緒に楽しい人生を送っていきましょう。頑張って!」

■「同じ境遇にいる人たちの希望につながれば」現在の病症と、今後について―

Q.ご家族の存在が、ありがたいですね?
(佐藤さん)
「本当に、ありがたいです」

Q.現在、どこまで回復されましたか?
(佐藤さん)
「今は、ある程度、普通に立てます。左足のほうに麻痺が多いので、たまに足を引きずることもありますが、もう座ったり立ったりするところまでは回復しました。ただ、腰回りは神経が全く通っていないので、触ってもわからないですし、後ろのポケットに物が入っていても全くわからないです」

Q.歩く時は、杖などを使われるんですか?
(佐藤さん)
「今は一切使わないです」

Q.医師から「完治という言葉がない」と言われた中で、そこまで回復したのは、佐藤さんが凄いからですか?
(佐藤さん)
「お医者さんには、やはり持ち前の運動神経があったので、回復がここまで早かったと言われました。ただ、まだ両足ともしびれていますし、肌の感覚も6~7割しか戻っていないので、お風呂に入っても、下半身と上半身の温度の差がわかりません。あと、平衡感覚がないので、バランスを取るのが難しいです」

Q.そういったことも、今後リハビリで戻していくんですか?
(佐藤さん)
「大きな神経がバッサリ切れてしまったので、これからは、周りにある小さな神経をどんどんつなげる作業をしていく感じです」

Q.佐藤さんのようにリハビリを頑張れば回復する、というお手本を示していただきましたよね?
(佐藤さん)
「リハビリは、頑張れば頑張るほど良いと思います。ただ、まだ排泄機能などもきちんとできないので、これからそういったところのリハビリも、頑張っていかなければいけないと思っています」

 また、「脊髄梗塞は、あまり知られていない病気。今回の経験を生かして、啓発活動をしていきたい。同じ境遇にいる人たちの希望につながれば」と想いを語ります。

(佐藤さん)
「脊髄梗塞は、10歳ぐらいの小さなお子さんからご高齢の方まで発症されています。でも、脳梗塞・心筋梗塞は保険が効きますが、脊髄梗塞は難病指定もされていないので、自腹です。今後は、できれば脳梗塞・心筋梗塞の中に脊髄梗塞を入れていただいて、保険対象にしていただけたらいいなと思います。そうなれば、今後の皆さんのためにも少しはプラスになると思うので、こういった活動をしていきたいと思っています」

(「情報ライブ ミヤネ屋」2024年9月12日放送)