「弟はいないという気持ちで生きてきた」「兄に期待するのに疲れ…」母を亡くし生き別れた兄弟の30年 取り戻した家族の時間
30年前、2人は地震で母を亡くした。
鈴木佑一さん(35)と兄の一馬さん(43)。
鈴木佑一さん
「ここは自分の人生の、家族のつながりとかを含めて、一回終わった場所」
ここには母と兄弟、3人で暮らしていた施設があった。
「神戸母子寮」。
夫の暴力や貧困、障害など、困難を抱えた母と子の福祉施設。
37人が身を寄せ合って、暮らしていた。
阪神・淡路大震災。
日本で初めての近代的な大都市における直下型地震。
6434人が命を落とした。
木造2階建ての「神戸母子寮」も激しく崩れ落ち、5人が犠牲となった。
兄の一馬さんは、自力で外に出ることができたが、母親と弟の佑一さんは生き埋めになった。
鈴木佑一さん
「地震が起きたとか分からなかったです。なんで動けないんだろう、みたいな感じで」
鈴木一馬さん
「『助けてください、ここに弟とお母さんがいる』と言ったけれど、みんなそれどころじゃなかった」
佑一さんは駆け付けた人に助け出されたが、母は冷蔵庫の下敷きとなり、亡くなった。
鈴木佑一さん
「白い柵があるじゃないですか。お母さんが布団にくるまれて横たわっているのを見ました。その姿は今も覚えています」
母の富代さん。
暴力を振るう夫から子どもを守るため、「神戸母子寮」へ。
母を失った兄弟を待っていたのは、孤独だった。
佑一さんは、児童養護施設に預けられた。
父親は、子どもを2人も育てられないと、兄の一馬さんだけを引き取ったのだ。
佑一さんが中学生のとき、一馬さんが、一度だけ、施設を訪ねてきたことがあった。
鈴木佑一さん
「『僕と親父どっちと住みたい?』みたいなことを聞いてきて、僕は分からないので『分からない』と言って、それから『また来週くらいに来るわ』と言われて、そこから二度と来なかった。そのときぐらいから、自分の中で親子とか兄貴とかに期待するのに疲れてきて、それだったら自分でどうにかしようと思った」
20歳で児童養護施設を出るとき、父が一人で亡くなっていたことを知らされた。
兄の一馬さんも傷を抱えたまま、生きてきた。
地震のあと、父親に引き取られてからも、一緒に育った仲間のいる「神戸母子寮」の避難先に頻繁に顔を出していた。
記者
「なんで母子寮に来たいと思うのかな?」
一馬さん
「何でやろう」
父と話した記憶はほとんどなく、次第に、家に帰らなくなった。
一馬さんには、家族ができた。
しかし、弟の存在からは目を背けてきた。
鈴木一馬さん
「怖くて(佑一さんに)会いに行こうともならなかったです。恨んでいるかもしれないし、若いときに悪い事をいっぱいしていたので、そんなことで悪い影響とかがあっても困るしと思いながら。弟はいないという気持ちで生きてきたので。自分一人だと」
一馬さんの妻・綾子さん
「会ってほしいなともちろん思ったし、聞くと、一馬がとりあえず震災を思い出したくないと。そこでシャットアウトしてしまって」
兄弟の時間は止まったままだった。
■兄の居場所を知った佑一さんが会いに行くことを決意
再び動き始めたのは、震災から28年がたったおととし秋。
佑一さんが、一馬さんの居場所を知り、会いに行くことを決めた。
「神戸母子寮」の元職員から、兄が苦しんできたことを聞いていた。
鈴木佑一さん
「すみません」
一馬さんの妻の綾子さん
「はい」
佑一さん
「こちらに鈴木一馬さんおられます?」
綾子さん
「はい」
佑一さん
「僕、弟なんですけれど」
綾子さん
「あ、佑一君?ちょっと待ってね」
綾子さん
「こんばんは」
佑一さん
「こんばんは。初めまして」
綾子さん
「初めまして。佑一くんやんね」
佑一さん
「僕、弟の佑一と言いまして」
綾子さん
「佑一くん 」
佑一さん
「今いないんですよね?」
綾子さん
「いま子どもとお風呂に行っていて、来ました今。お兄ちゃん」
佑一さん「佑一」
一馬さん「おお」
佑一さん「ははは」
一馬さん「ははは」
綾子さん「びっくりした」
佑一さん「会いに来てん」
綾子さん「入って」
一馬さん「今は元気?」
佑一さん「元気にしてる」
綾子さん「喋ったら?」
佑一さん「とりあえず中に入ってもいいですか? じゃあ、お邪魔します」
震災の追悼式典。
佑一さんは遺族代表として、震災後の歩みを語った。
その姿を、再会したばかりの一馬さんが見守る。
鈴木佑一さん
「人に感謝をすることを感じて生活していくうちに、震災があって、兄が苦労したことも自然と分かるようになってきました。私は兄に会いたいと思いました。兄に幸せに生きていってほしいと伝えたいからです。私は初めて兄と一緒に母の墓参りに行きます。29年前、止まった私の家族の時間がきょう、やっと動き始めます」
「神戸母子寮」の跡地にあるほこらには、母のお地蔵さんがまつられている。
鈴木佑一さん
「これは兄ちゃんが作ったんやろ? 持ったら? 自分で作ってんから」
鈴木一馬さん
「29年ぶりに触った」
佑一さんと一馬さんは静かに手を合わせた。
鈴木一馬さん
「怖さがなくなりました。(地震が起きた)17日の怖さが。いろんなことを思い出したりするのが嫌だったので。でも、こうやって会えて、その恐怖はとれました」
夏。
母子寮の出身者たちが、地域の子どもたちにほこらにお参りしてもらう行事を初めて行った。
鈴木佑一さん
「昔、母子寮があって僕の母も亡くなってお地蔵さんになった。これからもやっていきますのでいつでもまた来てください」
家族のつながりが絶たれた場所を、次世代に震災を伝えるための場所へ変えていく。
鈴木佑一さん
「これまでは自分のためだけの場所だったけれど、震災があったことを後世に向けて発信していくことが僕たちにできること」
鈴木一馬さん
「お地蔵さんがなぜここにあるのかを知ってもらいたいという中で、力になれることがあったら力になろうと」
震災から30年。
兄弟の時間を過ごす中で、気づいたことがある。
鈴木佑一さん
「初めて気を使わなくていい人が兄かなと思います。そういうのが家族なんだと初めて僕も認識できた」
(読売テレビ「ウェークアップ」2025年1月11日放送分を一部加筆・編集)
鈴木佑一さんと一馬さんの30年は、下記ドキュメンタリー番組で放送します。
NNNドキュメント’25
『ここに、たしかに、死があった 大震災を知らないあなたへ』
ナレーション有村架純
1月19日(日)深夜0時55分~ 日本テレビ系全国ネットで放送(録画予約は翌20日になります)
壊滅した神戸の街は再開発で生まれ変わり、被災の痕跡はなくなりました。
「知らない」「想像できない」「経験していないからわからない」。
しかし、たしかに、ここには、死がありました。
母を亡くした兄弟。2人の子どもを亡くした父。教え子を亡くした教諭。
6434人の犠牲者にはそれぞれの日常があり、残された人たちもまた、それからの日常を生きてきました。
それぞれの30年をたどり、この大震災が奪ったものの大きさと尊さを伝えます。
備えのきっかけとなる小さな種を撒くために。
いつか必ず、大地震は再び起きるのです。