創業86年。当初からつくり続けている“えがらまんじゅう”が人気の和菓子店「饅頭処つかもと」。昔ながらの店構えと、黄色い旗がトレードマークだった。
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毎朝生地から手作りする“えがらまんじゅう”は地元に愛され、遠方から“まとめ買い”をしにくるお客さんも多かった。こし餡を包んだ饅頭は、くちなしで染めたモチ粉をまぶしてあるため鮮やかな黄色をしている。その見た目が栗のイガに似ていることから、それがなまって“えがら”と呼ばれるようになった。
三代目店主の塚本圭一郎さん(43)はこの店で生まれ、育ち、働いてきた。
「おじいちゃんが50数年前に建てた3階建ての住居兼店舗が自慢だった。ここに家族と店の歴史がすべて詰まっている。それなのに、あっという間に燃えてしまった。」と、剥き出しの鉄骨だけが残ったかつての店舗を眺める。家族一丸となって奮闘してきた情景が蘇る。
「みんなで必死に頑張って、15年前にローンを返した。その後、数百万円する機械を何度か導入したけれど、その借金もようやく返済し終わった。母親と、あとは死ぬまでのんびり饅頭を作り続けようねと言っていたのに…」と悔しさを滲ませる。
コロナ禍には大打撃を受けたが、何とか踏ん張り、昨年客足もようやく戻ってきた。大晦日、「来年からは朝市もかつての賑わいが戻るはず。がんばろう!」と家族で話していた直後の震災だった。
店舗の1階にはパソコンが置かれていた。ここで店番をしながら、注文のメールなどをやりとりしていた。幸い、帳簿や書類は会計事務所に預けていたため、店の再開手続きをする際に困ることはなさそうだという。しかし、父親から聞き取りした饅頭のレシピなどは紙に書かれており、全て焼失してしまった。
店舗の奥には、毎日早朝から稼働していた作業場があった。ここでは、塚本さんと両親、数人のパートのスタッフが働いていた。
餡を炊くのに欠かせない大きな二重釜や、餡の皮と中身を分離する機械などは見る影もなくなってしまった。数百万円する専門的な機械の多くが燃えたことも大きな損失だが、それと同じくらい大切な物も失ってしまったという。それは、仕事場のあちこちに張られた、製法を書いたメモ。細かくグラム数までも記してあった。ほかにも、使い慣れた木枠や木製のヘラなど、替えのきかない物が、ここにはあった。
地震が起きた時、塚本さんは店から火を出さないようにと、ブレーカーを落として避難した。祖父が建てた店舗は鉄筋コンクリートのため、倒壊の心配はしていなかった。
避難先で、朝市に火の手があがったという情報を聞いた。燃える朝市を見に行った時の光景が忘れられないという。「地獄のようでした。これが現実とは信じられなかった。近くまでは行けなかったけど、ああ終わったなと…」。
塚本さんが店を見に行ったのは、それから3日ほど後。あまりの凄惨さに母親に見せるのを躊躇したという。
火事さえなければ店舗は大丈夫だったのに、という悔しさが残る。それでも「火事の原因も、消火活動も、誰も責められない。津波の恐れもあった中で誰も悪くないですよ」と気丈に語る。
今は“もう一度大好きな仕事をしたい”“お客さんにえがらまんじゅうを食べてほしい”という気持ちが強い。ただ、饅頭を作る設備や作業場が残っていない状況で何ができるのか、と弱気になる時もあるという。「一歩踏み出す勇気や思い切りが必要なんです。そこでちょっと悩んでいます」