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輪島の記憶を遺す


3Dで知る能登半島地震

企画・取材・編集:日本テレビ
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3Dの操作方法

「忘れ去られるのが怖い」
被災状況をデジタルで保存

2024年最初の日に起きた能登半島地震。消防庁の報告書によると、大規模火災が発生した石川・輪島市の朝市通り周辺では、約240棟に被害が出た。震災から半年が経とうとするいま、かつて観光客の賑わいにあふれた街では、被災した住居や店舗を撤去するため、工事の音が鳴り響いている。復興への槌音だ。

しかし、建物の解体が始まる中、震災の記憶をどう繋いでいくか悩む人もいる。祖父から受け継いだ土産物店を失った田中宏明さん(33)は、「建物が撤去されることで、災害のことが風化してしまう。輪島を忘れ去られるのが怖い」と話す。建物などの“遺構”は、災害の脅威や防災の教訓を伝えてくれるが、ここは生活の場でもあるため、すべてを残すことはできない。

このページは、4月中旬の「朝市通り」をドローンなどで撮影し、画像処理によって作成した3Dなど、被害の状況を知ることができるコンテンツです。公費解体が始まる前の骨格だけ残った建物や道路を塞ぐがれきの様子が再現されています。画面をクリックすると、通りや建物に近づいてみたり、自由な角度から見ることができます。(2024年6月末、日本テレビ報道局・技術統括局)

なぜ火は広がったのか
消火阻んだいくつもの“想定外”

朝市通りの一画で電器店を営んでいた川端卓さんは、当時、輪島市消防団の団長だった。1月1日はくしくも70歳の誕生日、本来なら家族と一緒に古希を祝うはずだった。

地震発生から1時間半が経った午後5時40分ごろ、出火に気付いた川端さんは、家族を避難させると消火活動に駆けずり回っていた。

だが、必死の消火も虚しく、やがて通り全体に火の粉は回り、川端さんの店舗兼自宅も飲み込まれ全焼した。

「大津波警報の中、限られた人員でやれることはやった。ただ、 為す術がなかった。消防車は来られないし、消火に使う水がどこにもなかった」。川端さんはどこか諦めたような口調で無念さを口にする。

あの時、消火活動の現場では何が起こっていたのか。そこには消火を阻む様々な要因が重なっていた。

建物の倒壊や道路の隆起により、消防車が現場に近づけなかったこと。また水道管が壊れ、 断水が起きたため、街に設置された消火栓が使えなかったこと。さらに、地下に水を貯めている防火水槽を使おうとしても、倒壊した瓦礫などが重なり、防火水槽にたどり着くことができなかったこと。八方塞がりだった。

こんな時は海や川の水を使おうと思ったが、大津波警報の発生で海に近づくことはできない。そこで、川の水を求めて消防車のホースを川に下ろしたが、地震による隆起が影響したのか、川の水もほとんどなかったという。

それでも川端さんたちは諦めず、ホースを何本もつなぎ、離れた場所にある防火水槽や、小学校のプールの水を使って放水を続けた。だが、古い木造家屋の多いこの一帯で火の手が弱まることはなかった。

結局、津波警報が注意報に切り替わった1月2日未明になって、ようやく海水を汲み上げての消火が始まったという。しかし、時はすでに遅く、火は街を飲み込んでいった。

人員がもっといればよかったという声もあったが、それに対して川端さんは団長としての思いを口にした。「やはり津波が来ると言われたら、消防団として無理に消火活動はできない。人命第一ですよ。今回は津波が来なくてよかった」。

朝市通りからはきれいな海を眺めることができる。震災発生時、津波と隣合わせの街ではどのような消火活動をするべきなのか。今後の消防防災対策を早急に考えなければいけない。