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「全部なくなったが、人は残った」
輪島塗9代目 絶望の中の“奇跡”

江戸時代から250年続く漆器店には、奇跡的に残った輪島塗の器があった。防火扉を閉めていた店舗の2〜4階には火が回らなかったのだという。“やはり輪島塗は強い”と再建を誓う9代目に話を聞いた。

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“店が燃えるのを見届けたい”
父親とともに見た光景

輪島塗の製造販売を行う小西庄五郎漆器店。輪島朝市通りで江戸時代から続く名店では、観光客へ販売するだけでなく、長年京都や大阪の料亭に煮物椀などを納めてきた。製作に1年以上かかることもあるという輪島塗は普通の漆器よりも丈夫で、同じ器は存在しない。そのため、料亭からの評価は高く、広く愛されてきた。店舗ビルの裏には自宅、工房、土蔵、駐車場の敷地が広がるが、ほぼ全焼。店舗ビルの外観だけがかろうじて原形をとどめている。

地震発生時、9代目の小西弘剛さん(43)は、妻と二人の子どもと近くのアパートにいた。すぐに避難し、車中泊をしようとしていた夜10時頃、店舗兼自宅にいる父親から「うちの5~6軒先まで燃えている。もうだめだ」と連絡を受けたという。

小西さんが駆けつけた時には、すでに通り一面は火の海だった。父親と店舗に入り、通帳や書類など最低限の物を手に取って外に出ると、まもなく小西さんの店舗にも火が燃え移ってきた。“店が燃えるのを見届けたい”という父親のそばで、小西さんもその様子をぼう然と眺めていた。目の前の光景が信じられず、その時の感情は覚えていないという。意味もわからずスマホで燃える朝市の様子を記録し、火が迫ってきたところで父親と共に避難した。避難しながら「店舗の中に残された漆器は全滅だろう」と、諦めていたという。

瓦が覆いかぶさった営業車
花束が供えられ

店舗と反対側にある駐車場には営業車が停まっていた。この車に完成した漆器を積み込み、京都や大阪の料亭に納品に向かうのが日常だった。

まだ店に火が回る前、車だけでも移動させようと試みたが、周りの建物が崩壊し、すでに車の上には瓦などが覆いかぶさっていたという。車に近づくことは断念せざるをえなかった。

取材時(4月中旬)には、現場で見つかったものなのか、陶器のほか、花束が置かれていた。

輪島塗の強さに助けられた

火災ですべてを失い絶望していたが、後日、店内からは奇跡的に残ったお椀や陶器、塗り物が見つかった。防火扉を閉めていた店舗の2〜4階には火が回らなかったためだ。

すすだらけで散乱していたが、床に落ちても割れなかった椀も多かったという。「“堅牢優美”と称される輪島塗の強さに助けられた」と小西さんは嬉しそうに眺めていた。

火から守られた“見本椀”
「歴史を途絶えさせなくて済む」

いくつかのお椀や漆器は、ほとんど無傷の状態で残っていた。特に江戸期から代々受け継がれてきた“見本椀”が無事だったことは「奇跡」だという。伝統ある輪島塗はこれを手本にして、オーダーメイドで作っていくことが多い。「これで店の歴史を途絶えさせなくて済む」。小西さんは安堵したという。

この震災を通じて一番大切なものを再確認できたという。それは長年一緒に輪島塗を作ってきた仲間たちの存在。「建物も作業場も全部なくなったけど、人は残ったんです。職人さんたちも全員無事だった。人脈だけあれば何とかなる。人に助けてもらいながら、何とかやっていこうと思います」と、小西さんは前を向く。

実際、輪島塗には工程が120以上あり、1つの品物を作るだけでも5~6人の職人が必要になる。彼らがいれば、また再建できるはずだという。燃えずに残った輪島塗の椀を使いたいと声をかけてくれる料亭もある。小西さんの店は、少しずつ出来る仕事から再開し始めた。