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大津波警報の最中、生き埋めに
 救われた命「絶対に恩返しを」

生き埋めとなり、九死に一生を得た33歳は、「大津波警報が鳴る中、必死に助けてくれた輪島の人たちに恩返しを」と誓う。焼け落ちてしまった祖父の店を再建したい──。地震から半年となる6月下旬、市が所有者に代わって解体し撤去する「公費解体」が始まろうとしている。

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仕事も生き方も全部
教えてくれたのは朝市だった

創業68年の衣料雑貨店「てんだ商店」。朝市通りで早朝から人で賑わう人気店だった。店内には、珠洲焼や輪島塗の土産物から、傘や鞄、帽子などの日用雑貨までたくさんの商品が並んでいた。この店で18歳から働いている田中宏明さん(33)は三代目。仕事も生き方も全部朝市に教えてもらったという田中さんは、この地震で朝市の人たちに命を救ってもらった。

元日、店舗の裏側にある祖母の家で親戚とおせちを食べていた。そこで一度目の揺れが起きた。田中さんは「店の商品は大丈夫かな?」と様子を見るため外に出た。その時にドン!と、より大きな揺れが襲った。

輪島市内では最大震度7──。立っていられず電柱にしがみつくと、一瞬にして視界が真っ暗になった。隣の家屋が崩れ、土壁や瓦が田中さんに覆いかぶさってきたのだ。生き埋めになった。呼吸することもままならない中、必死に声をあげ続けると、駆けつけた親戚が土をかき分けて10分後にようやく顔を出すことができた。

それでも身体には瓦屋根が被さったままで、全く動かない。そんな最中、大津波警報のサイレンが鳴り響いた。海はすぐそばだ。田中さんは死を覚悟した。だが、警報が鳴る中、一人の男性が声をあげたという。「逃げてる場合か。人が一人埋まっているんだぞ!」。すると周りの人たちも救助に参加してくれた。痛みに耐えながらも信じられない思いだったという。「僕を助けてくれていた人はきっと怖かったはずです。あの恐怖の中、助けてくれた。朝市の人に救われた命、絶対に恩返ししたいです」

田中さんの救助は1時間以上かかり、最後はジャッキを使って何とか救出。救急車が来ることもなく、自力で近くの避難場所に移動した。腰の骨が4本折れていた。

2か月以上の入院治療を終え、ようやく退院した3月。田中さんは変わり果てた朝市通りを見て絶句したという。「爆弾でも落ちたのかなと思うくらい衝撃でした」。だが、あの時自分を助けてくれた輪島の人たちに恩返しするため、絶対に再建すると田中さんは心に誓ったという。

店の人気商品だった“珠洲焼”
祖父の店「潰すわけにいかない」

店の焼け跡からは珠洲焼の“お地蔵さん”が見つかった。てんだ商店では珠洲市の職人が作った珠洲焼の土産物が並び、このお地蔵さんは人気商品だったという。ここでしか手に入らない商品も多く、「また来るね」と足を運び続けるお客さんが何人もいた。こうした焼き物の商品を一つ一つ大切に扱っていたのは、田中さんが尊敬している祖父の由次(よしじ)さん。一代でこの店を築き、7年前に80歳で亡くなった。

田中さんは今でも祖父のことばかり考えるという。「この店が本当に大好きで、肺気腫だったのに酸素マスクをしながらお店に立っていた。一日中仕事のことを考えていて、かっこよかった。僕はずっと祖父の背中を見て仕事をしてきました」。

店の敷地内には立派な柱が残っていた。祖父が“地震がきても大丈夫なように”とこだわって作った建物だった。「じいちゃんは、“地震じゃ、この店は潰れん”といつも言っていました。自慢の店だったんです。潰すわけにはいきません…」。田中さんは焼けてしまった店の跡地を眺めながら、ずっと祖父の思い出話をしていた。

震災後、初めて見た地下室の中は──

店舗の跡地には地下に続く階段が残っている。その先には商品を保管しておく地下室がある。祖父が作ったものだ。今はまだ危険で中には入れないが、その奥に小型の360度カメラを入れてみると、看板商品だった帽子や鞄、カッパなどが大量に残っているのが確認できた。

どれも観光客に人気の商品だが、炭のにおいが付いてしまっているため売り物にはならないという。それでも、当時の商品が残っていたことを田中さんは喜んでいた。「どんな形でも商品が残っていたのは嬉しい。じいちゃんに感謝です。よく地下室を作ってくれた」