被災地支援のため12年にわたり岩手県の病院で勤務した医師が故郷で新たなスタート【徳島】
■三好市の三好病院循環器内科の医師
(県立三好病院 前川裕子 医師)
「きょうはせこいん(苦しいん)ですか?」
(患者)
「きょうはちょっと余計せこい(苦しい)」
(県立三好病院 前川裕子 医師)
「ここがドカドカすることはないですか?」
(患者)
「今のところはない」
徳島県三好市の三好病院循環器内科医の前川裕子さんです。
前川さんにとって、三好病院は特別な場所です。
(県立三好病院 前川裕子 医師)
「実は三好病院は私が生まれた病院で、ずっと自分の中で三好を支える病院という大きな存在のイメージを持ったまま帰ってきました」
三好市出身の前川さん。東京大学を卒業後、幼い時からの夢だった医師を目指し、26歳の時に千葉大学医学部に進みました。
その後、東京都内などの病院で医師として経験を積んでいました。
■前川さんに大きな転機が訪れた
それは2011年3月東北地方を襲った東日本大震災でした。
(県立三好病院 前川裕子 医師)
「メディアで被災地の状況が、リアルタイムで流れているのを見た時に信じられなかった。自分がここで普通の生活をしていていいのかなと思うようになってきて、自分も循環器内科医の駆け出しで研修を受けているところでしたが、後悔したくなかったので行きたいと思うんだったら行くと決断した」
行くなら短期ではなく年単位の長期で、前川さんは不退転の決意のもと勤めていた病院を退職。
被災地岩手県の宮古病院に赴任します。
2011年6月、震災後、3か月後のことでした。
(県立三好病院 前川裕子 医師)
「使命感に燃えて飛び込みましたけども本当に宮古の方、宮古を取り巻く岩手のみなさんが温かく迎えてくれましたし、かわいがってくださって、人に恵まれて自分が向こうにいられたと思います」
被災地支援だけでなく、仕事にもやりがいを感じた宮古での12年間、そこには患者さんとの深い絆が生まれていました。
(県立三好病院 前川裕子 医師)
「自分が宮古に留まるのは、どうしたらよいか考えてくれる人もいた。例えば、お見合い相手を探そうとか」
一方で離れると決まってからは、感情を抑えきれない診察もありました。
(県立三好病院 前川裕子 医師)
「涙を流されて、それにつられて私も一緒に泣いて、外来診察をしているのにみんなで泣いて診察をおえた場面もありました」
しかし、前川さんには医師になった時から抱く将来像がありました。
(県立三好病院 前川裕子 医師)
「将来的には地元の故郷で地域医療をやりたいなという、徳島に帰ってくる時は三好で医療をしたいと思っていました」
■故郷に帰ってきた前川さん
そして、去年10月から前川さんは三好病院で新たなスタートを切りました。
今は、毎月3日ほどの外来診察に加え入院患者の回診が毎日の日課です。
午前8時過ぎ、この日、三好病院から前川さんが出てきました。用意された車に乗り込みます。
(県立三好病院 前川裕子 医師)
「きょうは東祖谷診療所の外来診療に行きます。自分が今後、この地域で地域医療をやっていくにあたって、僻地と言われるところの現状と環境とか住んでいる方の生活の状況とか、そういうのを知ったうえで自分の診療に活かていきたいと思って」
2週間に1度の僻地診療は前川さん自らが希望した業務です。
早速、白衣に袖を通し午前9時半、診療が始まりました。
(患者とやり取りをする 県立三好病院 前川裕子 医師)
「同じ薬でも会社が変わると(薬が)体に合わないこともありますからね」
不安を抱く患者さんへの励ましも前川さんにとっては医療のひとつです。
(県立三好病院 前川裕子 医師)
「次、何を植えるんですか?」
(患者)
「マリーゴールドだったり」
(県立三好病院 前川裕子 医師)
「元気でおらないかんね楽しみにしていますから」
(患者)
「寒いし先生も風邪をひかんように」
(県立三好病院 前川裕子 医師)
「ありがとうございます」
(県立三好病院 前川裕子 医師)
「診察して話をするときに、私は必ず病状のことだけでなく、可能な範囲で雑談をする。雑談でその方のひととなりが分かったり、どんな生活をしているんだろうかとか、そういうことを知ることで病気だけを見た薬の調整じゃなくて、その人の生活丸ごとみて薬を処方したりお話しできたりしたい。その人が歩んできた人生や今後の人生にも思いをはせて、関わってあげられるような医師になりたいです。この地でずっと頑張ろうと思います」
医師になりたいと思ったのは「人に感謝される仕事に就きたいと思ったから」その思いは今、生まれ育った故郷に注がれています。
前川さん将来、通院が難しかったり入院はしたくない人のために訪問診療をやりたいということです。
生まれ育った故郷、三好への寄り添いは始まったばかりです。