震災で壊滅したイチゴの産地 親子の思いや最先端技術で次世代に受け継ぐ“復活の味”
12年前の3月11日に起きた東日本大震災の大津波で、壊滅状態となったイチゴの町があります。被災地からもう1度“イチゴの町”へ。その思いで生まれた“復活の味”が今、受け継がれようとしています。
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先月、宮城県山元町の直売所に行列ができていました。そのお目当ては、毎朝、農家から届くイチゴです。そのイチゴは町の復興のシンボルです。そして今、復活した栽培用のハウスで、次の世代に引き継がれようとしています。
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3代目のイチゴ農家・菅野孝明さん(53)。父から農園を継いだわずか3か月後に東日本大震災が起きました。
菅野農園の3代目 菅野孝明さん
「忘れられないですね、あれは絶対。もう12年もたったのか…」
12年前の震災で、山元町では637人が犠牲となりました。東北最大のイチゴの産地は津波で壊滅し、イチゴ農家の95%以上が被害を受けました。
当時、イチゴをパックに詰める作業をしていた菅野さんは、幼い2人の娘を連れて高台へ走りました。10棟以上あったハウスは全滅しました。それでも、祖父から父と母、そして自分へと受け継がれた農園の復活を決意しました。
菅野農園の3代目 菅野孝明さん
「やっぱり、イチゴしか作ったことないんで、イチゴを作る方向でいこうっていうことで」
父の孝雄さんがハウスの再建に動き、菅野さんはがれき撤去の仕事で生活を支えました。そして、震災から1年もたたずに、イチゴを収穫できるまでに復活しました。
震災から8か月後、直売所に初めてイチゴが並んだ日、父・孝雄さんは――
父・菅野 孝雄さん(当時65)
「やっぱりイチゴだね、本当にしばらくこの味を忘れていたというか、今まで被災で夢中になっていたんで、イチゴ食べて涙出るなんて…」
父の思いが詰まったイチゴ。その父は高齢となり引退しました。今、隣で収穫を手伝うのは14歳の二女・ももさんです。震災時、高台へと抱えて走り、守った命です。12年の月日がたち、ももさんには“ある思い”がありました。
二女・菅野ももさん(14)
「継ぎたいって気持ちも結構強いです。(父が)つらい時は助けて、もっとイチゴを、これからもつないでいきたいなって思います」
菅野農園の3代目 菅野孝明さん
「つないでいってもらえれば、本当にうれしいですね。これからもずっと絶やさないで、もう何十年と産地を継続して、山元町のみんなと盛り上げていきたいと思います」
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次世代へと受け継がれるイチゴは、都内の百貨店「伊勢丹 新宿店」にも置かれていました。1粒約1000円。震災後に生まれた高級ブランド「ミガキイチゴ」です。その栽培農家を訪ねました。
手がけたのは、山元町出身の岩佐大輝さん(45)です。
農業生産法人GRA代表取締役CEO 岩佐大輝さん
「うちのおじいちゃんが、イチゴ農家だったんですよ。(イチゴを栽培する)この土地っておじいちゃんから借りたんですよ。『お前使っていいぞ、イチゴもう1回頑張れよ』と」
岩佐さんは震災当時、東京でIT企業の社長を務めていました。変わり果てたふるさとを前に、“イチゴの町”復活を決意。その栽培方法は、これまでとは全く違うものでした。
熟練のイチゴ農家から基礎を教わり、IT企業で培った最先端技術を活用しました。イチゴの成長に欠かせない二酸化炭素を送り込む装置や、温度や太陽光など、最適な環境を保ち続けるシステムを開発し、新ブランド「ミガキイチゴ」を作り出したのです。
農業生産法人GRA代表取締役CEO 岩佐大輝さん
「ダイヤモンドって、最初は、原石はもうただの石ですけど、磨くとどんどん美しくなっていきますよね。イチゴも一緒で、技術を積み重ねることでダイヤモンドのように輝く」
データで管理するからこそ、正確に味を引き継げる。岩佐さんはイチゴ農家を育てる学校も立ち上げ、そのノウハウを広めようとしています。
「ミガキイチゴ」を開発 農業生産法人GRA代表取締役CEO 岩佐大輝さん
「次の世代の人は、我々の成功なり失敗を見て、イチゴ作りに取り組むことができる。たくさんの作り手の方に学びに来てもらって、みんなに『ミガキイチゴ農家』になってもらいたい」
“イチゴの町を取り戻す”。その思いが“復活の味”をつないでいまいます。一度は途切れかけたイチゴのバトンは、新たな作り手へと受け継がれていきます。