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追悼 愛子さま見守った野村一成元東宮大夫

2021年11月30日 12:03
追悼 愛子さま見守った野村一成元東宮大夫

天皇皇后両陛下の長女、愛子さまが20歳を迎えられる12月1日の誕生日が近づき、ご一家を厳しい時期にお支えした側近のことを思い出しています。7月4日に81歳で亡くなった元宮内庁東宮大夫(とうぐうだいぶ)の野村一成(いっせい)さんです。
(日本テレビ客員解説員 井上茂男)


【皇室コラム】「皇室 その時そこにエピソードが」
第12回<追悼 愛子さまを見守った側近 野村一成・元東宮大夫>

■幼稚園入園の話から始まった定例会見

2006(平成18)年4月14日。ロシア大使から東宮大夫に慌ただしく着任して臨んだ初の記者会見は、学習院幼稚園に入園された愛子さまのことが話題の中心でした。

最初にご夫妻の「ご感想」が紹介されました。「国民の皆さまに温かく祝福していただいたことに感謝しております。楽しそうに、喜んで通っています。充実感を持って過ごしているようでほっとしております。2日間で急に成長したように感じています」

入園式があったのは3日前の11日。真新しい制服を着た愛子さまは約50人の友だちと入場し、「敬宮(としのみや)愛子ちゃん」と呼ばれ、元気よく「はい」と返事をして立ち上がりました。ご夫妻も他の父母たちと一緒に後方の席から見守られました。

会見では愛子さまの「呼び名」についても説明がありました。陛下の例に倣(なら)えば「愛子内親王殿下」でしたが、陛下が「姓と名で呼ばれる他の子と同じように」と希望され、称号と名前を一般の氏名のように並べて「敬宮愛子」とした経緯が明らかにされました。

「雅子のキャリアや、人格を否定するような動きがあった」という陛下の発言に衝撃が走ったのはこの2年前。皇后雅子さまの「適応障害」の療養が続き、ご一家に対する眼差しが厳しい中での就任でした。以後、野村さんは黒衣(くろご)に徹し、陛下に会見の内容
を相談しながら、毎週金曜日に記者たちの厳しい質問に向き合っていきました。

■オランダ静養、不登校問題で見せた手腕

手腕を感じたのは着任から2か月後の6月23日の会見でした。愛子さまが夏風邪をひかれていることを説明した後、ごく自然に「お知らせが一件あります」と前置きし、夏のオランダ静養について切り出しました。雅子さまの療養を兼ねた前例のない静養です。着任間もない野村さんがオランダ側と極秘に調整を重ねて具体化したことが分かって、舌を巻いたものでした。

秋篠宮妃紀子さまの悠仁さまご出産が近づいていた頃です。「部分前置胎盤」で帝王切開の可能性が明らかになり、記者たちの気がかりは紀子さまのことでした。オランダの静養先で取材が設定されることになっても、宮内庁の担当記者は動かず、ヨーロッパ駐在の特派員に任せる空気が広がっていました。

野村さんから言われたのはそんな時です。「ご一家に初めて接する特派員に取材してもらっても意味はありません。日ごろの様子がわかっている人に取材してもらわないと」。野村さんは苛立ちを隠しませんでした。言われるまでもなくオランダ行きを探り、ご一家と同じ飛行機を予約していることを話すと、気持ちは少し和らいだようでした。

オランダでの取材。愛子さまは硬い表情でした。現地のカメラマンから「アイコ」「アイコ」と声をかけられ、怖がっているように見えました。取材時間は10分。何とか表情を和らげることが出来ないかと思って「愛ちゃーん」と2度呼びかけ、それがきっかけになってご一家に笑顔が広がりました。
現地2泊でとんぼ返りして野村さんを訪ねると、すでに現地から報告を受けていて「ありがとう」と感謝されました。

本気を見たのは2010(平成22)年3月、初等科2年生の愛子さまが同級生の乱暴な言動に不安を感じて学校を休んだ時でした。対応を学校に迫り、会見で経緯を発表しました。この発表に強い批判が起こります。「黙っているのは宮さまのためによくない。ご本人に乗り越えてもらうしかない。後になって発表が転換点と思ってもらえたらいいんだけれど」。毅然とした姿勢を崩さない野村さんに凄(すご)みを感じたものでした。

■3か国で大使、PKO法の成立に尽力

東宮大夫のことばかりが語られますが、マレーシア、ドイツ、ロシアの3か国で大使を務めた大物外交官でした。ソヴィエト連邦課長時代、庁内にいるかのように自席のイスに上着を残してモスクワで外交交渉に臨んだり、国連平和維持活動(PKO)協力法案の国会審議では野党の厳しい質問に一歩も引かなかったり、政治記者たちも目が離せなかったそうです。

退官後は、年に何度かそば屋で熱燗を傾けてきました。酔っても口は堅く、ご一家の様子を語ることはありませんでした。

酔うと決まって懐かしんだのが「寅さんモスクワへ旅支度」という読売新聞の記事でした。1984(昭和59)年、日ソ関係が冷え込むなか、モスクワなどで6年ぶりに日本映画祭を開き、山田洋次監督の「男はつらいよ・口笛を吹く寅次郎」などを上映する企画でした。仕掛け人の一人が野村さんでした。フーテンの寅さんは大歓迎され、「あの記事はよかった」と見出しを口ずさむのが常でした。

そのロシア関連の仕事には「陛下に障ることがあっては」と退官後も慎重でした。「沖縄担当大使」を務めた縁から沖縄平和祈念堂を運営する「沖縄協会」の会長に就き、陛下が沖縄と関わる仕事に就いたことを喜んで下さった、とうれしそうでした。

■5年3か月の在任 「心からの応援者の一人でありたい」と最後に

在任5年3か月。様々なことがありました。オランダ静養、陛下の十二指腸のポリープ手術、初のモンゴル訪問、雅子さまの活動、上皇ご夫妻との関係、「新たな公務」の模索、愛子さまの不登校、東日本大震災のお見舞い……。49年の公務員人生で最も長い仕事がご一家を支える東宮大夫でした。

野村さんが力を込めて語ったことがありました。「愛子さまはもう大丈夫。あの一件を乗り越えて強くなられました。妃殿下も出来る限りのサポートをされ、ご自身のご回復につながった。必ず回復されます」。雅子さまと愛子さまのことをずっと気にかけていることが伝わってきました。

両陛下は訃報に接し、野村さんに献身的に務めてもらったことに感謝し、温かみのある人柄を懐かしまれていたそうです。2011(平成23)年7月1日、最後の記者会見の言葉を思い出します。「ご一家の心からの応援者の一人であり続けたいと思っています」。

元気だったら愛子さまの思い出話で一緒に熱燗を2本、3本と傾けていたところです。きっと成年皇族の仲間入りを静かに喜んだことでしょう。心からの応援者がいない寂しさを改めて噛みしめています。
(終)

冒頭の写真は、トンガ訪問時の天皇陛下(当時皇太子さま)と野村一成元東宮大夫(2008年8月1日)


【略歴】井上茂男(いのうえ・しげお)
日本テレビ客員解説員。元読売新聞編集委員。皇室ジャーナリスト。1957年東京生まれ。読売新聞社会部の宮内庁担当として天皇皇后両陛下のご成婚や皇后さまの適応障害、愛子さまの成長などを取材。著書に『皇室ダイアリー』(中央公論新社)、『番記者が見た新天皇の素顔』(中公新書ラクレ)。

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