視覚障がいの女性「死を覚悟」震災時の恐怖 人で溢れた避難所、不自由さに愕然
ほとんど視力がなかった女性にとって東日本大震災は想像を上回る困難の連続だった。地震で家が被災しても見て確認することができなかった。身を寄せた避難所では人が溢れ、何がどこにあるかも分からず1人では身動きが取れなかった。トイレに向かう時は雑魚寝していた見知らぬ人たちに足が度々ぶつかり、当惑した。原発事故で故郷を追われても女性は故郷に帰ることを願い続けた。「小高区にいるときは何でも一人でやっていました。何でもできていました」住み慣れた家、知っている通り、近所の友達…目が見えなくても1人で生きていける場所だからだ。しかし、戻ってみるとそこはもう女性が知っている故郷ではなかった。
視覚に障碍があっても不自由なく暮らせた故郷
「『今日は星出ているの』と友達に聞いたら『いっぱい出ているよ』と言われて、空を見たら何も見えなかった」。
福島県の沿岸部にある南相馬市小高区に住む矢島秀子さん(82)は、19歳の時に目の異変を感じ始めた。網膜色素変性症という難病で、症状は悪化し、ほとんど見えない状態になった。「昨日できていたことが今日できなくなることもあった」と矢島さんは振り返る。
息子夫婦と同居し、外出する際には必ず白杖を携帯する。目が見えなくても、長年その場所に住み続けるとどこに誰が住んでいて、どこにどんな店があるのかなども分かってくる。音や匂いなども自分がいる場所を確かめることができる大切な情報だ。矢島さんは1人で散歩をし、買い物に行くこともできた。震災が起きるまでは…。
大地震の後、ガスの臭いが…死の恐怖
2011年3月11日。矢島さんが自宅で点字の本を読んでいた時、突然経験したことない横揺れに襲われた。咄嗟にこたつの下に隠れると「ガタン!ガタン!」と家具が倒れる大きな音が響いた。さらに「ガシャン!パリン!」とガラスが割れる音も聞こえてきた。揺れがおさまり、恐る恐るこたつから顔を出した矢島さんは異変を感じた。
「ガスのにおいが…。シューッという音がしていて、終わりだと思った」。
地震でガス管が壊れたのか、部屋中にガスの臭いが立ち込めていた。視覚的に状況を確認することができず、死を覚悟するほどの恐怖だったという。その時、家の外から急いでいるような複数の足音が聞こえた。矢島さんが靴も履かないまま外に飛び出すと、すぐに近所の人が見つけて、助けてくれた。
「『1人か』と言われて『うん』と言った。そしたらすぐに手をとってくれて…」。
近所の人の手を借りて近くの駐車場に避難。その後、家族と合流し、近くにある高校の体育館に身を寄せた。
歩くことすらできない避難所に愕然
その体育館はすぐに人で溢れた。南相馬市は津波の被害もあり、家を流された人などが大きな荷物を抱えて詰めかけた。避難した家族ごとのスペースもほとんどなく、通路もない状態だった。白杖が使えず、矢島さんにとって1人では全く身動きがとれない場所だった。
「見える人なら飛び越えたりできるわけだけど、私の場合はできないから…もう足探り。一歩一歩ずらして、またずらすというような。カニ歩きっていうんですか。ああいう感じでしたから」。
避難所で最も苦労したのは仮設トイレに行くことだった。家族に手を引かれ歩いていると足がたくさんの人に触れ、途方に暮れたという。数十メートル先のトイレが遠く感じた。矢島さんにとって避難所は1人で立って歩くことすらできない不自由な場所だった。「いつまでここにいるのか…」。愕然とした。
原発事故で避難生活が続くことに
追い打ちをかけるように起こったのが福島第一原発の事故だった。原発から20キロ圏内にあった南相馬市小高区は警戒区域に指定され、全ての住民(約1万2800人)が避難を強いられた。矢島さんは親戚の家など避難先を転々とする中、「どうしても故郷の近くに戻りたい」と、約10か月後に南相馬市鹿島区の仮設住宅に移り、家族と暮らすことになった。避難区域から外れてはいたが、同じ市内でも住んだことがない場所だった。
「車をよけると方向がわからなくなる…。近くの知らない人に『どこ私歩いているんでしょう』と聞いたことがある」。
息子夫婦も生活の再建のため仕事などで忙しく、矢島さんに付きっきりになることはできなかった。矢島さんはどこを歩いてよいかも分からず、次第に外出を控えるようになった。
「仮設住宅の近くには、私の拳くらいの石がゴロゴロ落ちていたんですよ。白杖を頼りに歩く私にとって、とてもじゃないけど1人で歩ける場所ではなかった」
どこかに出かけたいけど、出かけられないという現実に矢島さんは、怒りやもどかしさを感じながら、とにかく早く故郷に帰りたいという思いが募り続けていたという。
「小高区にいるときは何でも一人でやっていました。何でもできていました。今までやっていたことがまるっきりできなくなってしまう、私のように見えない人は違う場所に行くと動けない、そういう経験がたくさんありました」。
故郷に戻りたいけれど、すぐには戻れなかった。故郷で再び暮らせるようになるには、原発事故で漏れ出た放射性物質を環境中から取り除く除染を全域で実施し、政府の避難指示が解除されなければならない。そこに至るまで6年4か月もの時間がかかった。
そこは“静かな”故郷だった
2017年7月。矢島さんは震災前まで住んでいた地区に戻り、暮らしを再開させた。しかし、慣れ親しんだ小高の街は以前の姿とはかけ離れたものだった。矢島さんが以前、よく出かけていたJR小高駅近くの商店街がある。ケーキの甘い匂いに魚屋の店主の声。パンを焼く匂いを嗅ぎながら歩くだけでも楽しかった。見えなくても、音や匂い、白杖を使って、行きたい店に行き、買いたいものを買えた。活気があり、楽しい記憶がある商店街は様変わりしていた。
「静かでした…。懐かしい匂いもないし…。」
商店街はほとんどのお店が閉店していた。小学校も統合され、街中に響いていた子供たちの声は聞こえなかった。街を歩く人も少なく、震災前の賑わいは失われていた。
「よく肩叩いて、私の名前を呼んだり、『誰だか分かっか?』なんて言われたり。そういうことがなくなりました。寂しいですね…」。
慣れしたんだ故郷でも矢島さんは1人で出かけることはほとんどなくなった。週に2回ヘルパーを呼び、日常生活を送っている。
それでも矢島さんにとって、小高は特別な場所だという。
「以前の姿とは全然違うけど、やっぱりいろんな場所に思い出が残っているんです。それを感じながら、ヘルパーさんと街を歩くと、なんとなく落ち着くんですよね。街で家を建てているような音が聞こえると嬉しくなります。少しずつ前みたいな賑わいが戻ったらいいなって」。
変わってしまった街の姿に寂しさを感じつつも、矢島さんは、これからも愛する故郷で生活をしていくつもりだ。
「誰一人取り残さない」防災は可能か…
内閣府のデータによれば、東日本大震災における障碍者の死亡率(岩手・宮城・福島)は、健常者の約2倍に及ぶ。東日本大震災では、起きていることを把握することができずに、自宅に留まった人が津波によって亡くなるというケースが多くあった。また、宮城県の医療的ケア児(医療的ケアが日常的に必要な児童)を持つ女性は、食料などの支援物資を取りに行くことができずに、自宅でパスタの乾麺を食べて凌いでいたという。
令和3年の災害対策基本法の改正により、「誰一人取り残さない」防災を目指し、障碍者や高齢者1人1人の状況に合わせた個別避難計画の作成が市町村の努力義務とされた。しかし、計画を完成させた自治体は全国で僅か数%という。障碍者の避難に詳しい東北大学災害科学国際研究所の栗山進一教授は、さらに課題を指摘する。
「過疎化が進み、“地域の横の繋がり“が薄れている地域においては、そもそも障碍者の支援体制を整えることが難しい」。
その上で、栗山教授はまずは障碍者を支えることができる周囲の人たちが災害時の被害を最小限にできるよう、基本的な対策が再確認すべきと訴えている。
福島第一原発から20キロ圏内で暮らす矢島さん。致死量の放射線を放つ燃料デブリを取り出す廃炉作業は今後最長で30年続くと見られている。その間、強制避難の可能性はずっと残されたままだ。万が一に備え、矢島さんが心がけていることがある。
「自分が障碍者であることを周囲の人たちに知ってもらう。分かってもらうようにする」。
いつ、どこで起こるかわからない災害に「誰一人取り残さない」防災が実現できるのか。東日本大震災から14年経つ今でも、課題は多く残されている。