軍艦島の炭鉱の閉山式から半世紀 島民の記憶に残るのは『端島を忘れるな』の横断幕《長崎》
長崎市の端島(はしま)通称「軍艦島」の炭鉱の閉山式が行われてから15日で丸50年を迎え、記念のセレモニーが開かれました。
ピーク時には世界一の人口密度を誇った島の当時の暮らしを元島民たちが語り合いました。
長崎市の軍艦島デジタルミュージアムで開かれた「端島炭鉱閉山50周年記念セレモニー」。
元島民や関係者ら約100人が参加しました。
島の歴史を振り返る映像が上映されたほか、元島民が当時の様子について語りました。
(元島民 中村陽一さん)
「黒字で閉山した日本でただ1つの炭鉱。石炭が採れるところ全部掘りつくして閉山した」
長崎港の沖合いに浮かぶ端島(はしま)=通称「軍艦島」。
1890年、明治23年に本格的な石炭の採掘が始まると炭鉱の島として栄えました。
ピーク時の1960年には5000人を超える人々が生活し世界一の人口密度に。
ただ、「石炭の埋蔵量が尽きた」として1974年に閉山すると、その年にすべての住民が島を去りました。
閉山式が行われてから50年経った今も、島での思い出は島民たちの記憶に鮮明に残っています。
( 元島民 木下 稔さん )
「(閉山前)この島をどんどん離れていって、私も島を離れるときに、学校のすぐそばの護岸に同級生が並んでいて横断幕を掲げてくれて『端島を忘れるな』という言葉を書いて見送ってくれた。それが一番の思い出」
端島で生まれ育ち、自らも炭鉱で閉山まで働いた加地 英夫さん、91歳。
住民同士の助け合いが島を支えていたと振り返ります。
(元島民 加地英夫さん)
「赤ちゃんが生まれたばかりの若いお母さんたちが、どうやってお風呂に行こうかとしていたら『隣の人が赤ちゃんお守りしてやるから今のうちにいってきなさい』とそういう話も何回か聞いた。温かい気持ちがあったからこそ端島は持っていた」
閉山後、2015年には「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の1つとして世界文化遺産に登録されると、おととしには上陸者数が200万人を突破。
長崎観光の「目玉」の1つとなった一方、鉄筋コンクリート造りの高層アパート群は年々、劣化が進んでいます。
(元島民 加地英夫さん)
「あの島は明治時代の人が作って、大正時代の人たちがそれを守って、昭和の私たちは島を育ててきたという気持ちがいっぱい。そういう気持ちがいつまでも端島のために続きますようにと祈っている」
また、ミュージアムでは新しい展示コンテンツ「軍艦島立体シアター」もお披露目されました。
床と壁、天井の5面に設置されたLEDディスプレイで、立体的に軍艦島を体験できます。
立体シアターは来月末にオープンする予定です。