「山下という暗号、Y」第一通報者犯人視の裏で…極秘捜査の真相を元捜査員が語る 松本サリン事件 私の30年②【長野】
シリーズ「松本サリン事件 私の30年」2回目は当時の県警の捜査員と報道記者です。
第一通報者の男性が犯人視される中、極秘の薬品捜査でオウム真理教に迫っていました。
【当時長野県警で薬品捜査 上原敬さん】
「サリンは。こういう構造なんです。これがサリンで」
30年たった今もすらすらとサリンの構造式を書きます。
上原敬さん69歳。当時、長野県警の捜査一課で誘拐事件や立てこもり事件などを専門とする特殊事件捜査係の係長でした。事件当日をこう振り返ります。
【当時長野県警で薬品捜査 上原敬さん】
「松本でよくわからない事件があったみたいだけど食中毒かもしれないと」
急展開を迎えたのは翌日の夜。
捜査本部は第一通報者の河野義行さん宅を「被疑者不詳の殺人容疑」で家宅捜索。
化学薬品数十点が押収されました。
これを機に事故から事件へ…
疑惑の目は第一通報者で被害者でもある河野さんへと向けられることになります。
当時、読売新聞松本支局の記者として事件を取材していた弁護士の永野貴行さんもその渦中にいました。
【元新聞記者 永野貴行さん】
「我々経験上警察が河野さんを明らかにターゲットにしているのは分かるし非公式の取材の中では捜査の本筋として河野さんにターゲットが向いているということは分かるわけですよね」
「我々もそういう目線で取材していたし」
そして、事件から6日後。
【長野県警の会見】
「2か所の池から採集した水について検査した結果、有機リン系の有毒物資が検出された、その物質はサリンと推定される」
原因物質は、ナチスドイツが開発した猛毒ガス「サリン」と判明。
大学で農芸化学を専攻していた上原さんは”薬品捜査”チームのリーダーとしてサリンの合成方法や薬品の入手ルートの捜査にあたることになりました。
チームには専門知識を持つ10人が集まり、捜査本部でも限られた人しか内容を知らない秘匿捜査でした。
【当時長野県警で薬品捜査 上原敬さん】
「サリンを作る方法を色々文献をみたりいろんな先生に聞いたりして」
結果的に5段階でサリンが生成できると特定。
原料となる物質が購入できる薬品会社を調べる中で不審な会社や人物の存在が浮かび上がります。
【当時長野県警で薬品捜査 上原敬さん】
「ある薬品の会社から今までとは違った取引の人に売ったことがあるという話が出てきた。実態もわからないという会社と、個人も出てきた住所にしていたのがなんとオウムの世田谷道場だった」
「長野県警がオウムを少しでも調べているとわかっちゃいけないしまずいなというので暗号を使い始めた、山下という暗号を使ってそれ以後オウム真理教を使わずに山下、Yと使い始めて」
秘匿で進められた薬品捜査では事件の1か月後にはオウム真理教の影が見えていました。
上原さんによるとその後、オウム真理教の信者が関係する4つのダミー会社がサリンの原料70種類ほどをおよそ180トン入手していると判明。
大学、薬品会社、製薬工場、運送会社など捜査対象はおよそ4200に上りました。
【当時長野県警で薬品捜査 上原敬さん】
「なんでずっと河野さんをおっかけているのかという不思議さはあった名前は全く出てこないかつサリンの毒性はめちゃくちゃすごくて、1滴で死んじゃう、そんなのが一般のうちでできるわけじゃないのって」
【大浦記者】
「第一通報者の会社員が今、車の方に向かいまして退院しております。退院しております」
しかし、河野さんへの報道は冷めることはなく事件から1か月たって退院すると初めてマスコミの前に姿を見せ疑惑を否定しました。
【河野義行さん】
「私が知らない間にいろんな報道がされていつの間にか容疑者の像と容疑者の像みたいな形で作られてしまっているということで、どこでこんなになってしまったんだろうと」
警察が河野さんへの取り調べを始めると永野さんも「河野さんの逮捕」に焦点を絞っていたといいます。
【元新聞記者 永野貴行さん】
「他社に先んじられるということが最もまずいことなのでいつ逮捕というのを逃さないために非常にピリピリしていて」
事態が大きく動いたのは翌年の元日。読売新聞が報じたのは山梨県の旧上九一色村の土からサリン生成の残留物が検出されたとのスクープです。
付近にはサティアンと呼ばれるオウム真理教の施設があり、松本サリン事件との関連に大きな注目が集まりました。
【当時長野県警で薬品捜査 上原敬さん】
「ばれちゃったなというのがあって(JP)捜査員の中にも我々がどういう動きをしているか知らない人がいっぱいいた」
しかし、サリンは再び、市民を襲いました。
1995年3月20日地下鉄サリン事件
【当時長野県警で薬品捜査 上原敬さん】
「これはやられたなと。やるのは連中しかいないなとピンときた」
防げなかった凶行。
【当時長野県警で薬品捜査 上原敬さん】
「相手は団体なのでいろんな人が出てくる誰がつくったのかとか、誰が松本へ来たのかというのが特定できない」
「そういう歯がゆさはあって、これだけのデータがあるにもかかわらずこう、行き詰まったところはあった」
悔しさは30年経った今も消えることはありません。
【当時長野県警で薬品捜査 上原敬さん】
「一番忘れられない事件、30年経っても鮮明に覚えている」
「知ってもらわなくてもいいんだけどこんな捜査もあったんだよということをですね、それだけのことです」
一方、河野さんを支えた弁護士に憧れた永野さんは新聞記者をやめ、事件から13年後に自身も弁護士として新たな人生を歩みだしました。
【元新聞記者 永野貴行さん】
「警察取材は警察の流れを追う取材なので警察が間違ってしまえば報道も間違える。構造的にどうにもならない。警察取材がある限り同じことはまた起きる」
「かつてよりはましになっていきている。一方でSNSを始めとする一般の人の情報の発信の仕方が大きく変わってきたから報道被害は全体としてみたら非常に深刻な状態になっちゃってる」