「戦争ぐらい惨めなものはない」 西川町の100歳の男性が語るシベリア抑留の過酷な作業
終戦後、シベリアの収容所に4年間抑留されたこちらの西川町の100歳の男性。当時の悲惨な記憶と平和を願い続ける思いを伝えます。
西川町岩根沢で孫夫婦と共に暮らす片倉政雄さん(100)。
片倉政雄さん「健康の秘訣は腹八分。病気知らず。暴飲暴食が一番悪いからね」
明るい笑顔が印象的です。しかし、いまも戦争の悲惨な記憶が消えることはありません。
片倉政雄さん「戦争ぐらい惨めなものはない」
片倉さんは1923年(大正12年)西川町の綱取地区で農家の家に生まれました。終戦のおよそ1年前の1944年8月、20歳のときに陸軍の歩兵部隊に入隊し、満州北部に出征しました。
片倉政雄さん「年中銃剣術の猛練習をさせられた。あと戦車を倒す練習。爆弾と自分の体を一緒に投げ出す。命失くさないといけない。そういう訓練だった」
満州では陸軍病院で衛生兵になるための教育も受けていましたが、間もなく終戦を迎えました。
片倉政雄さん「朝鮮半島に逃げていかないとソ連に抑えられるということで軍隊の服装でなく満州の人の服装に変装した。だけどもわかるんだよ。軍人関係の荷物を持っているから」
片倉さんたちは満州から朝鮮半島に向かう途中に中国の共産軍に捕まります。そして、シベリア南部の都市・チタに抑留されました。そこで待っていたのは収容所にも入れず、山で伐採された巨大な木をふもとまで運ぶ過酷な作業。食料はほとんど支給されず一日中零下40度の寒空にさらされる生活に身も心も弱っていきました。
片倉政雄さん「1番大変だったのが3日間食料が来なかった。『腹減って仕事できない。殺された方がいい』とソ連の警戒兵に申し入れたら警戒兵も泡を食って本部の方に連絡してくれた。本部の将校がすぐに来て『ここの作業は終わりだ。収容所に帰れ』と言ってくれて命拾いした」
しかし、収容所では当時、感染症が流行。仲間たちは次々に命を落としていきました。そんなある日、片倉さんは収容所の中にある病院で医師をサポートする衛生兵として働くよう命じられます。病院には毎日、多くの重症患者が運ばれてきました。
片倉政雄さん「注射を打つのはもちろん、浣腸をかけないといけない人もいるし、多かったのは栄養失調。食事を十分にとられないから栄養失調になる」
そしておよそ2年後。衛生兵としての能力を買われ、ソ連兵の治療などに当たる軍の医務室での勤務を命じられました。
片倉政雄さん「抑留になってソ連の医務室の仕事をしたのは俺くらいで誰もいないな」
抑留が始まってからおよそ4年後、片倉さんの帰国が決定。収容所を出る時、共に働いたソ連軍の少佐から言われた一言に衝撃を受けました。
片倉政雄さん「『普通は生きて帰したくないけれども友達だからこれだけは喜んで帰す。けれど今後米ソ戦は必ずある。日本に帰って米軍と一緒になってソ連に矢を向けるのなら生かして帰さない』と言われた。戦争だけは絶対してはならない」
来年で終戦から80年。ことし、抑留中にも使っていた飯ごうが家の倉庫から見つかりました。
片倉政雄さん「スープ作って入れていた。配給されるウシの頭とか様々ながらくたでスープを作っていた。毎日の楽しみだった」
まもなく101歳の誕生日を迎える片倉さん。平和への思いは年々強まっています。
片倉政雄さん「戦争は絶対だめ。みんなが平和的に生活できるのが一番の幸せ」
いまだ世界各地で戦争が絶えない現実に胸を痛めながら、片倉さんはきょうも世界の平和を祈り続けています。