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【特集】能登半島地震からまもなく1年、石川県珠洲市の“現在地”を取材 動き出す復興への歩み「真剣に落ち込んでいる暇もなかった。なるようになる」

2024年12月30日 8:00
【特集】能登半島地震からまもなく1年、石川県珠洲市の“現在地”を取材 動き出す復興への歩み「真剣に落ち込んでいる暇もなかった。なるようになる」

「真剣に落ち込んでいる暇もなかった。なるようになる」

能登半島地震から、まもなく1年。復興へ向けた“歩み”が始まったものの、石川県珠洲市では人口の減少が続いています。2024年12月、『中京テレビ』佐野祐子アナウンサーが、能登半島地震の“現在地”を取材しました。

2024年12月、崩れたままの家屋

2024年12月、石川県珠洲市。地震で崩れた見附島。珠洲市の観光名所のひとつです。1年が経とうとしても、海岸線は、壊れたままです。

佐野 祐子アナウンサー:
「石川県珠洲市宝立町です。元日の地震から、1年が経とうとしています。1月私はこの場所を訪れているんですが、その時には、ひび割れてガタガタだった道路が舗装されています。少しずつ前に進んでいるんだなと言うことも感じます。建物は、依然として、この通りはまだ崩れたままの家屋が多く残されています」

地区では、倒壊した住宅の解体が行われていました。

佐野アナウンサー:
「半年前には動いていなかった重機が、至るところで動いていて、解体作業が進む一方で、まわりを見わたすと、本当に1月から時間が止まったように、たたずんでいるお宅もあって、時間の進みが本当に印象的ですね」


2024年1月5日、佐野アナウンサーは宝立町を取材していました。

佐野アナウンサー:
「ちょっともう、ほとんど元の道路がわからないくらい建物が倒壊しています。倒れてしまっています。みなさんのここで生活していたんだっていう家財道具であったり、生活の様々な道具がこうして外に出ているのを見ると、本当に胸が痛みます」

倒壊した住宅。

突き出たマンホール。

町は一変しました。

佐野アナウンサー:
「珠洲市の海の近く河口付近。車に海藻のようなものが多くついていて大破しています。その反対側、これ車が車に乗り上げて重なっていますね。地震の揺れではこうはならないと思うので、津波の影響でしょうか」

発災直後、この地区でも、消防の隊員たちが活動していました。

2024年12月。

佐野アナウンサー:
「こうして歩いていると、街並みはこの辺りは大きく変わっています。更地になっていたり、建物が取り壊されているところも多くありますね。この、道の真ん中に突き出たマンホールがあるんですが、このマンホールは1月からこのままです。道路の真ん中で、1メートル以上突き出ているんですが、1年経ってもそのままです」

持ち寄った食材で炊き出し「自分の力で頑張る」

2024年1月、珠洲市宝立町。この日出会ったのは、宝立町に住む中島由起さん。母親の英子さんと、倒れかけた自宅から、必要なものを運び出していました。

このとき、由起さんが気にかけていたのが、飼っていた猫「ノラ」。発災後から行方がわかっていません。

発災直後、中島さん親子は高台の学校に避難。そして、その後は別の学校へ。生活の拠点を転々とする日々が続いていました。


2024年12月、発災後に訪ねた多田進郎さんのもとを再び訪れました。発災当時、避難所運営の代表を務めていた多田さん。能登半島地震から1年となるのを前に、年明けに発行する公民館だよりに載せる文章を練っていました。

Q.避難所には大体何人?
多田進郎さん:
「正確にはつかめていませんが、1月1日の最初で一挙に720人。それから増えていって、一時は800人近くにあったのかな。人口は少ないんだけど、1月1日で帰省していた人がいたので」

Q.みなさん食事はどうしている?
多田さん:
「全部作って」

避難所では、近隣から持ち寄られた食材を使って、炊き出しが行われていました。

多田さん:
「自助共助公助とあるんだけど、こういうのを乗り越えていくときには、やっぱり助け合いも必要だし、力も借りなきゃいけないけど、まず自分らの力でなんとか、今できることをなんとかやっていこうという、メンタルな部分は大事かなとつくづく感じた。不平というか、そんなことをいうのは簡単。まずは人の力は借りないで、ここで自分の力で頑張っていこう。ひとりじゃないよ、被害を受けた同じ恐怖体験した者が集まっているという。それが力になったんじゃないかなと」

校庭に仮設住宅、続く断水と入浴支援

発災から半年を前にした2024年6月。宝立町の街並みに大きな変化はありませんでした。

学校の校庭には、仮設住宅が建てられましたが、校舎の中での避難生活が続く人も。周辺では断水が続き、自衛隊の入浴支援も続けられていました。

多田さん:
「29地区あった地区が今ポツポツバラバラ。行ってしまったり帰ってこなかったり。その地区そのものが、前の状況ではなくなっている。いろんな感情があって、住もうか、どうしようか、慣れ親しんだ地域。住みたい。住むにはどうしようか、そういう課題もある」

2024年6月24日。この時点で、石川県内で解体が完了していたのは、4.4%でした。

2024年1月に出会った、中島由起さんの自宅も未解体。由起さんは、「7月中ごろにできればいいが、わからない。まだ決まっていない」と状況を話します。

出会った当時に探していた、飼い猫「ノラ」もまだ見つかっていません。

畑仕事が日課だったという、由起さんの母・英子さん。今も毎日、自宅のはなれの裏にある畑に通っているといいます。

「玄関とか。仏さまに供える花植えてあったんです。秋になったらハクサイ、ダイコン、カブを植える」と、畑で咲いた花を手に発災前の様子について話す英子さん。続けて、「ここに生まれて、ここに育ってここが好き。どこも行きたくない」と、故郷への思いを語りました。

中島さん親子は、2024年5月から“みなし仮設”で暮らしていました。

由起さん:
「この先といったらよく自分でもわからない。どうしようと。本当にわからない。復興と言われても」

発災半年、復興への道のりは...。

2024年10月、石川県内の解体の進捗率は23.9%

2024年11月、英子さんはこの日も畑仕事です。近くで暮らすネコの「ナナ」の世話もしています。

英子さん:
「津波来たから、すぐにはできなかった。夏食べるものはできなくて、それでも、ダイコンはいいのができたなって。ネギもまあまあ、そこそこかな」

7月中ごろといっていた自宅の解体は、まだ始まっていません。ノラも見つからないままです。

英子さん:
「更地になって、ちゃんとしないと、やっぱり、前に進まない。やっぱりなくならないと。あのままだったらさみしい。涙出るだけ。困っているということは、家がないことくらい。やっぱり自分の家が欲しい、小さくても」

同じころ、多田進郎さんの自宅も手つかずのままでした。自宅の解体のめどについて、「雪が降る前にはやってくれる、と期待しているんだけど」と話します。

見附島を望める自宅からの景色が、多田さんのお気に入りでした。

Q.ずっと住んでいたご自宅、取り壊すのも…
多田さん:
「惜しいよね。みんな涙でるよって言っていたけど、俺は出ないだろうなと。わからんけどね。真向いの人は更地にしたとき涙が出たよって言っていた。まあしかたないわな、でも」

2024年10月末時点で、石川県内の公費解体の進捗率は23.9%。

泉谷 満寿裕珠洲市長:
「解体がスピードに乗ってきたのは、夏の終わりごろ、秋口からなので、そこで一気に進みましたので、そこまでの半年間は、滞っていたところはあるかもしれませんね。金沢を拠点にということになると、行き来に時間がかかるので、作業効率が上がらないということは(半島という)地理的なハンディとしてある」


2024年11月7日。中島さん親子が住んでいた、はなれの解体が始まりました。

英子さん:
「なんかね、心がきゅーってする」

由起さん:
「寂しい。みんな一緒だと思いますが」

Q.この時を待っていましたが…
由起さん:
「そうですね。つぶれた時も寂しかったけど、なくなるのもさみしくて。でも進んでいかなくちゃいけないから」

一週間後、はなれの解体は終わり、母屋の解体が始まりました。作業員が残された品をとりわけながら、解体作業が進められます。

解体作業が進む現場で、英子さんが手に取ったのは、“アルバム”。

Q.見覚えありますか?
英子さん:
「これ由起やな。ほら、由起やわ。これ私やけど。若いころの。ははは。こんな若い時もあったんやわ。ははははは。いま、ばあばだけど、若い時もあったんだ」

由紀さん:
「白黒やな、中学校かな。びっくり、びっくり、びっくり。好きな男の子も出てた。ははは。高校の時の体育祭やわ」

町内で踊りの先生をしていた由起さん。その際に使用する、扇子もたくさん出てきました。ひとつひとつ、カビや泥をふき取り、乾かします。

Q.解体は7月くらいと話していて、ようやく11月。そこから建てるとなると。当初思い描いていたイメージとは...
由起さん:
「違います。本当に違います。同じ宝立のどこかにいることができれば、仕方ないのかなと。例えば(災害公営)住宅なりを建ててくれるのであれば、そこなり。今のたっている永住的な仮設なりに入らないと仕方ないのかなと。家が建てられないということになってきたら」

有志による協議会発足「自分たちの町は自分たちで守る」

発災から11か月。由起さんは、地震の後、再開した踊りの活動で町内の施設を慰問しました。

由起さん:
「こんにちは。まずは、1月1日の震災の日から、皆様におかれましては、大変な苦労をされたことと思います。心からお見舞い申し上げます。いろいろと失うものも多くありましたが、少しでもそれでも以前の生活を取り戻そうと、踊りを再開し、きょうの日に向けて練習してきました」

慰問先で踊りを披露した由起さん。慰問後、「仕事とあれで、いろんなことも考えるし、みんなも一緒だと思うが、こうやってみなさんに喜んでいただけて、踊ってよかったなと思います。ありがとうございました」と話しました。

小中学校に開設されていた避難所は、8月には近くの公民館に移りました。授業も再開しましたが、通っているのは、震災前の半数ほどです。

「これね、9月21日に、大洪水起こったでしょ。あの時断水したんですよ。この地域。なので、その時に支援物資として、役所のほうから届けられた」と、公民館に置かれた支援物資を前に話すのは多田進郎さん。

Q.当時(9月21日)はまだここにも避難している人が?
多田さん:
「そうそう9月21日ね。ここが解散したのが、11月の20日くらいかな。その時にほとんど、仮設にみんな移れたし、一世帯だけかな、自宅を改修できたので」

宝立地区のこの避難所が閉鎖されたのは11月。珠洲市内では、まだ閉鎖されていない地区もあります。

多田さん:
「例えば、自衛隊が能登半島に滞在していた日数というのは、ほかの東北とか熊本に比べると長かったというのは聞いているので、避難所もたぶん長かったんだろうなという気がする」

「避難所はどちらかといったら“守り”みたいだけど、これからは守りに対して攻めになっていくかな。マイナス、すべてがマイナスだったのがようやくゼロになって、ゼロから今度プラスに向けてという感じかなと思う」

復興へ向けて、動きはじめた町。しかし、人口は減っています。

泉谷珠洲市長:
「人口減少については、11月末、この11か月間ということになるが、人口減少が1132人。震災前だとだいたいそれでも人口減少はしていたが、年間300人ほどだったので、一気に加速している」

「若者が金沢に流出している?」という記者からの質問に、「ある」と答えた多田さん。

Q.つなぎとめるための方法、難しさはある?
多田さん:
「そうだね。簡単にいかないでこっちにいてと言っても、こっちに生活基盤、いわゆる仕事とか今の段階であるか。学校の避難所を子どもたちに開放したのは8月。だけど、お父さんお母さんの仕事の関係、それから地震に対する恐怖感みたいなものがあって、なかなか来られないよというのもある。まず残って、今いる人たちで、少しずつ、宝立の町を形作っていく」

珠洲市内の各地区では、「まちづくり協議会」が発足。「こんな町にしたい」という提案をする住民もいるそうです。

多田さん:
「絵を描く絵師、流木作家、ピアノやトロンボーン、クラリネット、紙芝居、踊りの先生。たぶん踊りの先生は中島さん(由起さん)じゃないかな。で、こういう人らが集まってきて、これ(「まちづくり協議会」が作った資料)は、金沢に行っているんだけど、こっちに畑があるので、畑を作るためにこっちに来たいなと。そのための町づくりもいいよねって、そういう提案」

復興へ向けた“歩み”は、始まったばかりです。

多田さん:
「やっぱりこの困難を越えていくときに、やっぱり誰かを頼るというのはだめだよと。やっぱり避難してきた人は少なくとも、いろいろつらい体験・恐怖体験、共有できる恐怖体験があるんだから。やっぱりみんなで力を合わせて、みんなで乗り越えていかないと、というのは、(2024年)1月2日、みなさんに呼びかけたときに言った。やっぱり私は、自分たちの町は自分たちでしっかり守って、元に復帰させる。そのためにできないところは、行政に要求していく」

今年9月、豪雨に見舞われた奥能登。宝立町のすぐ近くでも、川が氾濫。3か月が経過した今も、流木や土砂が残ったままです。

多田さん:
「こういう取材を受けるのは、前回も言ったんだけど、ほかの報道関係にも言っているんだけど、ありのままの1年後の今の状況を映してください。能登半島の先端の珠洲市で、(2024年)1月1日に被災して、1年近く経ったけど、まだこういう状況ですよと。それが甚大な地震とか津波を受けた地域でそうなっているんですよと。地震津波だけじゃなくて、半年経って9月、そこでまた大洪水が起こったという。信じられないくらい、何千年に一回の地震津波、洪水も結構確率的には低い。それが1年間で起こるという。想定内という言葉じゃなくて、想定外もそうだけど、それをはるかに超えたものが起こるんですよと。起こった時に、現在こうですよと伝えていくことは大事」

ふるさとの復旧に向けた道のり。多田さんの自宅の解体は、年を越しそうだといいます。

Q.自宅はまだ手付かず?
多田さん:
「手つかず。だからこの前、いつ来るんだ?って。ちょっとね、遅れている部分もあってと。しゃあないなと。更地になるとね、いろんな構想が出てくると思うんだけど、でも一瞬でも更地になるのはさみしい部分もあるなって。潰れてもしばらくこのままでもいいよな、という複雑な心境です。まあ頑張って、また(家族で)集まれるような小さな家を建てようかなと思う」

2024年12月中旬。英子さんはこの日も、猫のナナの餌やりで自宅を訪れました。

英子さん:
「ナナ。来た。あんた・・・。ごはんやろうかな。ここに入れるから」

自宅は解体を終え、更地になりました。

英子さん:
「とにかく解体してもらえれば、何か進むんじゃないかと思って。あしたの灯が見えてくるのかなと思ってしたんだけど、なんも見えてこん。私、自分で思って、1年経つんだと思って。何かついこの間みたいな感じして。なんだかさみしい。なんか過ぎていったのがよかったのかなと思ったり。ちょっとわからん、本当に」

かつての自宅から離れた場所で続く生活。それでも中島さん親子は、住人が金沢市に移り住み“空き家”となった自宅近くにある住宅を、購入する計画を進めています。

Q.家を決めてからの気持ちの変化は?
由起さん:
「ひとつすっきりした、すっきりした。同じ自分たちの同じ地区でね、そういうのを決めたらちょっとすっきりして、少し前へ前へ行けるような感じで」

「泣いて、家の解体とか見ると(涙が)ポロポロと、死んだネコのことを考えるとポロポロと出ますけど、真剣に落ち込んでいる暇もなかった。まあなるようになるでしょ」

「そう、なるようにしかならん」

今日は2024年12月30日。能登半島地震から、まもなく1年が経とうとしています。

最終更新日:2024年12月30日 8:00
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