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【戦後80年】被爆を隠し続けてきた85歳の女性「まだ遅くはない」語り始めた体験と伝えたいこと

2025年2月23日 6:41
【戦後80年】被爆を隠し続けてきた85歳の女性「まだ遅くはない」語り始めた体験と伝えたいこと

終戦から80年となることし、私たちは「いま伝えたい、私の戦争」と題して、いまを戦前にさせないためのメッセージを届けます。今回は、長崎で被爆したことを70年以上隠し続けてきた1人の女性の証言をお伝えします。「まだ遅くはない」。4年前、同級生のある提案をきっかけに語り部となった女性が、いま伝えたいメッセージがあります。

福岡市早良区に住む土井玞美子さん(85)。ピアノや旅行が生きがいだといいます。

■土井玞美子さん(85)
「いまはこれしか弾けないけれど、夢としては、もっと難しい曲、ショパンが弾けるようになったらいいなと思います。」

3年前、夫の国昭さんを亡くし、今は息子と2人で暮らしています。

■土井さん
「主人を亡くして悲しむどころか、のびのび旅行もしているし、家ではピアノがあるから。」

活動的な土井さんですが、80年前の8月9日、6歳の時に長崎市で被爆しました。母親と当時1歳の妹と一緒に電車に乗っていた土井さんは、爆心地からおよそ5キロ離れた駅に停車中、強烈な爆風を背中に浴びました。家族ともに無事でしたが、土井さんは今でも背骨が痛むことがあるといいます。

被爆後、土井さんを苦しめたのは心ない言葉でした。

■土井さん
「お見合いだったら長崎出身はだめだと言われていました。奇形児が生まれるとか、ガンになりやすいとか。(土井さん自身は恋愛結婚?)同じ高校でした。だから良かったんです。同じ被爆者だったから。」

差別を受けるかもしれないという恐れから、土井さんは自身が被爆者であることを70年以上隠してきました。その土井さんに転機が訪れたのは4年前、長崎の同級生から持ちかけられたある提案でした。

■土井さん
「同級生が長崎で平和活動をしていて、あなたも被爆者なら証言してちょうだいと。」

同級生が提案したのは、被爆者の体験などを記した雑誌に証言することでした。この中で、土井さんは初めて、胸の内を明かしました。

■雑誌への証言より
「体中真っ黒にすすけ、衣類もボロボロの人たちが線路伝いにぞろぞろとたくさんやってきました。まだ6歳の私でしたが、その光景も忘れることができません。長崎では戦後、12時に市役所のサイレンが鳴っていました。空襲警報と同じ音で私は怖かったです。」

7ページにわたる証言をきっかけに、土井さんは語り部として活動するようになりました。

■土井さん
「あまりにも日本の人はまだ無関心だと思います。私が原爆に遭ったのは6歳だったから、ほとんどの人が亡くなっていると思うけれど、今の若い人は聞く必要があると思います。」

1月、土井さんの姿は、福岡市早良区の公民館にありました。開かれていたのは「福岡戦争の記録を『読む会』」です。戦地で戦った兵士の思いを書き記した雑誌を基に、意見を交換します。参加者のほとんどが戦後生まれです。

■参加者
「父親と、戦争と平和について言い合ったことがあります。その時、 なんで戦争は嫌だ、戦争反対だと言わなかったのかと父親に言ったところ、 父親がぼそっと一言、お前たちは戦争反対とか言えていいなと言っていました。」
「私は戦争が終わって1年後に生まれたのですが、本当に大変な思いをして帰ってこられたんだなと。」
■土井さん
「(いまは)お金を持って買いに行けば、食べ物も山ほどあるし、着るものも靴もあるけれど、終戦後は何一つなかったです。私たちは、わら草履で過ごしました。そして、バナナが貴重品でした。たった一本のバナナを母が小さく刻んで、それを6人のきょうだいで分けて食べていました。」

80歳を過ぎるまで、自らの戦争体験を語ってこなかった土井さん。語り部として活動するきっかけとなった雑誌への証言で、最後にこうつづっていました。

■雑誌への証言より
「日本の国が二度と再び、どこかの国と戦火を交えることのないように、平和な暮らしができますように、私の話が役立つことを祈っています。」

■土井さん
「遅くはないと思います。私は死ぬまで(語り部を)したいと思います。だから長生きしないといけないと思っています。」

土井さんは反戦を訴える語り部としてこれからも歩み続ける覚悟です。

※FBS福岡放送めんたいワイド2025年2月19日午後5時すぎ放送

最終更新日:2025年2月23日 6:41