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津波に流された夫、最後に叫んだのは「私の名前」…あの日の後悔を胸に

2024年3月2日 18:00
津波に流された夫、最後に叫んだのは「私の名前」…あの日の後悔を胸に
「お客さんの食事の準備をしなくちゃ…」。そう思い、2011年3月11日、当時民宿を営んでいた女性は避難を躊躇った。地震で落ちた食器の片付けをし、宿泊客の夕食の仕込みをしなければいけなかった。地震発生から約1時間後、女性は夫と叔父とともに9メートルを超える大津波に飲まれ、2人を失う。自らも低体温症で死の一歩手前。「繋いでいた手がすり抜けていった、夫は叫んでいた…私の名前を…」。東日本大震災の大津波、避難するきっかけは複数回かあったが、「大丈夫だろう」と思ってしまうワケもあった。

【福島県相馬市 あの日の記憶】

福島県相馬市五十嵐ひで子さん(当時63)は夫の利雄(当時67)さんと娘の基恵(当時37)さんと3人で、「民宿いがらし」を切り盛りしていた。民宿は海岸から約200mの場所にあり、漁港にも近く、ほっき貝や青のりなど新鮮な海の幸をふんだんに使った料理が人気だったという。多い時には1日30人ほどの客が利用し、宿泊部屋の掃除や夕食の買い出しなどで大忙しだった。

夫の利雄さんは元々自衛隊員で、現役時代はほとんどが単身赴任だったが、退官してからは、民宿のお手伝いをしていた。ひで子さんと基恵さんが料理を担当する一方で、利雄さんはゴミ出しや食事の片付けなど2人が気付かないようなところを先回りして済ませくれるような人だった。口数が少なく、ひで子さんは「夫から名前で呼ばれたことはほとんどない」と話す。

「気が利いて優しい人だったんだけど、いつも私のことは『おーい』とか『かあちゃん』と呼んでたんです。単身赴任も長かったから恥ずかしさもあったのかな…」

そんな利雄さんは、ひで子さんと北海道への2人だけの旅行を計画し楽しみにしていた。旅費は利雄さんが自分のバッグに大切に保管していたという。

【「大丈夫、津波は来ないべ」地震発生からの記録】

2011年3月11日午後2時46分、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生。子供を迎えに行った基恵さんの帰りを待ちながら、ひで子さんは「民宿いがらし」の宿泊客のため夕食の準備に取り掛かろうとしていた。何かにつかまっていないと倒れてしまうほどの激しい揺れに見舞われ、棚の皿などが次々に落ち、割れてしまった。当時、叔父の鉄弥さん(当時84)も民宿にいた。揺れが収まると、外にいた夫の利雄さんが「大丈夫か?」と急いで戻ってきてくれ、ひで子さんと一緒に民宿の後片付けをしていると、外からは多くの人の声が聞こえてきたという。

「近所の人たちが出てきて、海をみていた。この地域では『潮が引くと倍になって大きい津波がくる』って言われてたから。引き潮が起きてないか確認していた」。

ひで子さんも気になり見に行くと、海は普段と変わらない様子だったため「これなら大丈夫だ」と思った。この時、相馬市には大津波警報が出されていたが、ひで子さんは気づかなかった。家にあったテレビは地震で倒れ壊れてしまい、さらに停電も起きていたため、情報が得られる状況ではなかったのだ。

「民宿の片付けをしながら、何度も夫と堤防まで走っていって、海の様子を見に行ったね。変化がないと分かればまた片付けに戻る。しばらくはこの繰り返しだった」。

【逃げる・逃げないの狭間で…町に残る言い伝え】

地震後、ひで子さんはどこかで「津波は来ない」と安心していた。この町で生まれ育った母から教えてもらったことを覚えていたからだ。

「地震のあと潮が引くと、魚から何から海に打ち上げられる。それを、かごをもって獲りに行き、『獲ったどー、逃げろー』って逃げて帰ってくる。でも堤防があるから、そこまで波が来なかったと(母が)言ってた…」。

当時、相馬市には6.2mの堤防があり、母が言う通り、津波がきても「そう簡単にこれを超えないだろう」と、ひで子さんも思っていた。さらに、この2日前に、同じく三陸沖を震源とするマグニチュード7.3の地震があった。青森県から福島県に津波注意報が出されたが、津波の高さは最大20センチで、被害は確認されなかった。

「みんな逃げないのよ、この町の人は少々の地震では津波は来ないって感覚だった」

当時、ひで子さんが海の様子を見に行った時、堤防には何人もの住民が、同じように集まり海を眺めていた。

【地震から30分後…状況が一変 避難へ】

「岩手と宮城に津波来てるから早く逃げろ!!!!!」

地震から約30分後、夫の利雄さんと海の様子をみていた時、消防団がもの凄い形相で叫びながらやって来た。ひで子さんたちはこの時はじめて、津波が隣県に来ている事を知る。ただ、この時も潮は引いておらず、ひで子さんは「ここには津波は来ないのでは」と思ったが、ある違和感があった。それが、余震の多さだ。震度3や4クラスの揺れが数分おきに発生していた。消防団の呼びかけもあり、ひで子さんたちはようやく避難をすることになる。
利雄さんは「これは持っていかなくちゃな!」とひで子さんと話し、北海道旅行への旅費が入ったバックだけを大切に持って避難する事にした。

【生死を分けた瞬間…あの時何が】

民宿から外に出て、避難する際、ひで子さんがふと足元をみると、サーっと水たまりのようなものが後ろから静かに迫ってきたという。

「え、なんだこれ、津波でなくてなんだ?」。

そう思い、ひで子さんが後ろを向いた瞬間…。

「ガシャンガシャンガシャンー!!!!」。

窓ガラスを打ち破る物凄い音とともに大きな津波が押し寄せてきた。2階建ての民宿を一瞬で飲み込み、波はどんどん押し寄せ、鉛のような色の水が覆いかぶさってくる。

「うわ~っ!!って言っている合間にもう3人とも(津波に)飲まれてしまって…」。

ひで子さんは近くにあった松の木につかまった。激しい水の流れを受けながらも手をつないでいた叔父の鉄弥さんに「顎上げろ、水飲むなよ」と声をかけ、離さないようにぐっと手を握りしめた。

しかし、激しい流れに抗えず、握りしめていた手がすり抜けてしまう。そして叔父とすぐ傍にいた夫の利雄さんはどんどん遠くへ流されてしまった。その時、利雄さんが大きな声で叫んだ。

「ひで子、ひで子、ひで子――――――――――!!!」

姿が見えなくなっても、利雄さんが自分の名前を呼ぶ声だけが聞こえてきたという。
普段は呼ばなかった「ひで子」という名前を懸命に叫んでいた。
その後、ひで子さんも流され、気を失った。

【奪われた命と残された命】

「寒い…!」と目が覚めた瞬間、目の前に広がっていたのは瓦礫の山。首だけが外に出ていて、体は瓦礫に埋まっていたという。上を見上げると、灰色の空からはみぞれが静かに降っていた。

「助けて!」

ひで子さんは幸運にも近くにいた消防団に救助され、またすぐに気を失ってしまう。その後、病院に運ばれ一命を取り留めたが、あと5分遅ければ低体温症で死んでいたという。津波に飲まれた夫の利雄さんと叔父の鉄弥さんは、その後、瓦礫の中で遺体となってみつかった。
利雄さんが大切に持って逃げた旅費が入ったバッグは、今もみつかっていない。

相馬市で津波などによる犠牲者は458人にのぼった。

【亡き夫の声─忘れられないあの日の記憶】

あの日から13年。ひで子さんは今、「語り部」の活動を続けている。相馬市を訪れた修学旅行生や観光客などに津波で被災した当時の状況を語る。震災の翌年から活動を始めたが、当初は語る度に悪夢のようなあの日の光景が浮かび、涙が溢れうまく伝えることができなかった。今も涙は出てしまうが、伝えるべきことがだんだん分かってきたという。

「なんで、なんで!!『逃げよう』って言えばみんなで逃げたのに…何を考えていたのか。逃げるって考えがあの時なかった…。一言言っていれば…それが辛い。忘れられない。今も苦しい、悔しいんですよ…」。

犠牲になった人の供養のためにと、思いを込めて語り部活動を行っている。涙を浮かべながら、熱く語り掛けるひで子さんを前に、心を動かされる人は少なくない。今では海外からもひで子さんの言葉を聞きにくる人がいる。ひで子さんが特に伝えたいのは、「自分の命を守る事」。大きな地震のあとは、すぐに「逃げよう」と声をかけて逃げてほしいという事。そして、風化させない事だ。
ひで子さんが語り部でいつも話すことがある。それは、夫の利雄さんのこと。

「これまで夫からは『おーい』や『かあちゃん』と呼ばれてきたのに、あの時、『ひで子―!』って私の名前を呼んでくれたの。旅費の入ったバッグを持って津波に飲まれながらね…。私の名前を呼んでくれて、なんか、うれしいなって。ひで子って名前を覚えててくれてありがとうって言いたいのかな…。」。

ひで子さんは、耳に残る利雄さんの最期の声をずっと胸に刻んでいる。