思うはふるさと 地震被災地から避難した要介護のお年寄り
能登半島地震で石川県から富山県に避難した人の中には、介護が必要なお年寄りも多くいます。エブリイでは能登島で飲食店を営んでいた女性を取材しました。心に秘めたふるさとへの思いとは。
射水市の介護施設、大江苑です。デイサービスや特別養護老人ホームとして、地域のお年寄り150人ほどが利用しています。
能登半島地震から1か月後、被災地から2人の避難者を受け入れました。
施設長「ようこそ」
水口ハマ子さん「ありがとう」
施設長「何をおっしゃいます。ようこそようこそ」
そのうちのひとり、能登島に住む水口ハマ子さん(78)です。
息子夫婦「元気でね」
ハマ子さん「ありがとうね、ありがとう ありがとう」
入居していた介護施設の建物に被害があり、石川県が避難を要請しました。
地震で石川から富山県内へ避難を余儀なくされた介護が必要なお年寄りは、多い時で175人にのぼりました。
そのひとりひとりにふるさとへの思いがありました。
記者「ふるさとはどんなところですか」
ハマ子さん「穏やかないいところ やったわ」
地震から3か月後。
水口守さん「たまに金沢とか行くと、こっち戻ってくるときに段々、現実に戻されるみたいな」
ハマ子さんの長男、守さんです。仕事の都合で、母親とは長年離れて暮らしてきました。
ハマ子さんは能登島の集落で生まれ育ち、結婚後、子ども2人を育てるなか、夫が倒れ、家族を養うために40歳で土産物店を始めました。
当時は和倉温泉と島を結ぶ橋がかかり、観光地化が進み始めた時代。その後、店は能登の魚介を活かした飲食店に。
さらには島で民宿も始めると、そばに出た湧き水のおいしさが評判となり、多くの人が訪れるようになりました。
水汲みの男性「元気いっぱいですよね。ひょこひょこ歩いてきて、ここでみんなとしゃべっとるみたいな。いつもおられたんにと思って」
6年前に夫が亡くなった後も、ひとり民宿に立ち続けましたが、ある朝、意識を失いました。
守さん「まさか脳梗塞とか、そんなんになるとは思わなかったので。一言で言うと本当によく働いた 母やなと。頑張ってきたんかなと思いますね」
民宿は休業、ハマ子さんは左足にまひが残り、七尾市の介護施設に入りました。
水口大基さん「夏場はお刺身、冬になるとカキ、カキフライ、焼きガキ、よう出ましたね」
飲食店は、孫の大基さんが継ぎました。
大基さん「ばあちゃんが認知症っていうか(勘定が)はっきり しないところがあったんで、みんな心配やったんで、それで 自分が引き継ぐことになったと いう感じですね」
元日の地震で店は至る所に亀裂が入り、営業再開のめどは立っていません。
店には、常連客からハマ子さんに宛てたメモとお守りがありました。
大基さん「ばあちゃんはお客さんがいちばん大事やったんで、この店無くなるとみんな悲しむから」
ハマ子さんが大江苑に来て1か月が過ぎたある日、孫の大基さんから手紙が届きました。
施設長「お食事処みずは、僕が頑張って再建しますやと。うれしいね。おばあちゃんが守ってきたのを僕が必ず再建するよ。七尾市の介護施設が直ったらこっちに帰ってきてね、そしてお食事処みずが再建したら、僕のおいしいご飯を食べに来てね、やと。うれしいね」
ハマ子さん「ありがたいわ」
施設長「元気でおらんまいけね」
ハマ子「ありがたい」
大江苑 松浦佳紀施設長「いろんな人生を歩んでいろんな 苦労をされて、いろんな涙を流して頑張ってこられた方が、 ここに来られて、そこでまた寂しい思いをされるというのは、私はしたくないなと」
4月、射水市の大江苑には、チンドン隊の姿が。
富山の春、チンドンのにぎわいを入居者に楽しんでもらいたいと、職員が企画しました。
そして、被災した石川県から大江苑に避難していたハマ子さんのふるさとでは、休業していた民宿に、孫の大基さんの姿が。
大基さん「刺身2、カキフライ1」
地震で大きな被害を受けた飲食店の再建に向け、当面の間、民宿の一角で営業を再開することにしたのです。
常連客「これ食べに、ご飯を食べに来ました。おいしいです、変わらずおいしいです」
おばあちゃんの人生が詰まったこの場所で再出発です。
大基さん「地震もあって店も無くなって、ちょっと大変でしたが、こうやってまた再建できたので、恩返しみたいなことができたらなと」
ハマ子さん「ようやっとるわ。ありがとう」
水口ハマ子さんのように能登半島地震後、富山県内の介護施設や病院に来た高齢者は、県が把握するだけで現在もおよそ100人いて、帰る見通しが立たない人が多いということです。
射水市の介護施設、大江苑です。デイサービスや特別養護老人ホームとして、地域のお年寄り150人ほどが利用しています。
能登半島地震から1か月後、被災地から2人の避難者を受け入れました。
施設長「ようこそ」
水口ハマ子さん「ありがとう」
施設長「何をおっしゃいます。ようこそようこそ」
そのうちのひとり、能登島に住む水口ハマ子さん(78)です。
息子夫婦「元気でね」
ハマ子さん「ありがとうね、ありがとう ありがとう」
入居していた介護施設の建物に被害があり、石川県が避難を要請しました。
地震で石川から富山県内へ避難を余儀なくされた介護が必要なお年寄りは、多い時で175人にのぼりました。
そのひとりひとりにふるさとへの思いがありました。
記者「ふるさとはどんなところですか」
ハマ子さん「穏やかないいところ やったわ」
地震から3か月後。
水口守さん「たまに金沢とか行くと、こっち戻ってくるときに段々、現実に戻されるみたいな」
ハマ子さんの長男、守さんです。仕事の都合で、母親とは長年離れて暮らしてきました。
ハマ子さんは能登島の集落で生まれ育ち、結婚後、子ども2人を育てるなか、夫が倒れ、家族を養うために40歳で土産物店を始めました。
当時は和倉温泉と島を結ぶ橋がかかり、観光地化が進み始めた時代。その後、店は能登の魚介を活かした飲食店に。
さらには島で民宿も始めると、そばに出た湧き水のおいしさが評判となり、多くの人が訪れるようになりました。
水汲みの男性「元気いっぱいですよね。ひょこひょこ歩いてきて、ここでみんなとしゃべっとるみたいな。いつもおられたんにと思って」
6年前に夫が亡くなった後も、ひとり民宿に立ち続けましたが、ある朝、意識を失いました。
守さん「まさか脳梗塞とか、そんなんになるとは思わなかったので。一言で言うと本当によく働いた 母やなと。頑張ってきたんかなと思いますね」
民宿は休業、ハマ子さんは左足にまひが残り、七尾市の介護施設に入りました。
水口大基さん「夏場はお刺身、冬になるとカキ、カキフライ、焼きガキ、よう出ましたね」
飲食店は、孫の大基さんが継ぎました。
大基さん「ばあちゃんが認知症っていうか(勘定が)はっきり しないところがあったんで、みんな心配やったんで、それで 自分が引き継ぐことになったと いう感じですね」
元日の地震で店は至る所に亀裂が入り、営業再開のめどは立っていません。
店には、常連客からハマ子さんに宛てたメモとお守りがありました。
大基さん「ばあちゃんはお客さんがいちばん大事やったんで、この店無くなるとみんな悲しむから」
ハマ子さんが大江苑に来て1か月が過ぎたある日、孫の大基さんから手紙が届きました。
施設長「お食事処みずは、僕が頑張って再建しますやと。うれしいね。おばあちゃんが守ってきたのを僕が必ず再建するよ。七尾市の介護施設が直ったらこっちに帰ってきてね、そしてお食事処みずが再建したら、僕のおいしいご飯を食べに来てね、やと。うれしいね」
ハマ子さん「ありがたいわ」
施設長「元気でおらんまいけね」
ハマ子「ありがたい」
大江苑 松浦佳紀施設長「いろんな人生を歩んでいろんな 苦労をされて、いろんな涙を流して頑張ってこられた方が、 ここに来られて、そこでまた寂しい思いをされるというのは、私はしたくないなと」
4月、射水市の大江苑には、チンドン隊の姿が。
富山の春、チンドンのにぎわいを入居者に楽しんでもらいたいと、職員が企画しました。
そして、被災した石川県から大江苑に避難していたハマ子さんのふるさとでは、休業していた民宿に、孫の大基さんの姿が。
大基さん「刺身2、カキフライ1」
地震で大きな被害を受けた飲食店の再建に向け、当面の間、民宿の一角で営業を再開することにしたのです。
常連客「これ食べに、ご飯を食べに来ました。おいしいです、変わらずおいしいです」
おばあちゃんの人生が詰まったこの場所で再出発です。
大基さん「地震もあって店も無くなって、ちょっと大変でしたが、こうやってまた再建できたので、恩返しみたいなことができたらなと」
ハマ子さん「ようやっとるわ。ありがとう」
水口ハマ子さんのように能登半島地震後、富山県内の介護施設や病院に来た高齢者は、県が把握するだけで現在もおよそ100人いて、帰る見通しが立たない人が多いということです。