「中にお父さんが…」南島原・泉川病院の医師語る 独自の災害医療派遣チームで直後に被災地へ《長崎》
能登半島地震は発生から8日で1週間を迎えました。地震発生の当日に長崎を出発し、被災地で支援を行った南島原市の病院の院長に活動について聞きました。
泉川病院 泉川卓也院長
「ここも医療者がいないところ。お年寄りばかりで一つの教室にいっぱい集まっている」
南島原市にあり地域の救急医療も担う泉川病院の泉川卓也院長50歳。
病院独自に結成した災害医療派遣チームを率い、地震発生の翌日から3日間、石川県輪島市で支援活動にあたりました。
泉川卓也院長
「1日の午後4時に発災しているので、その後チームに集合をかけて第1陣が出発したのが午後6時半」
元日夕方に能登半島を襲った最大震度7の地震。泉川院長をはじめ、看護師、技師らあわせて12人が4台の車両に分かれて発生当日に島原を出発。およそ16時間かけて陸路で現地入りしたそうです。
そこで目にしたのは…
泉川卓也院長
「主に行ったところが孤立していて全く支援が届いていないところ。輪島を当初目指したが、手前の門前町で甚大な被害を目の当たりにした。僕らは個人病院で行っているので上からの命令がなく僕の指示で動けるのでこの町を支援しようと」
活動したのは輪島市の市街地から20キロほど離れた門前町。持参したテントで寝泊まりしながら避難所を回り健康観察や診療、投薬、そして高齢者の排泄の介助などを行いました。
支援の届いていない避難所では長崎から持ち込んだ水や燃料などの配布も。
泉川卓也院長
「水、食べ物がなくて保健師も来ていない状態。大体8畳に20人近く避難していて一番の問題は一酸化炭素中毒。寒いので窓を開けたがらない。石油ストーブなどがあって締め切ってしまうと非常に危ないので1時間に5分から10分程度は換気をしてくださいとずっと伝えた」
被害の全容がつかめない中。
泉川卓也院長
「これは門前町にある民家だが、避難した人から『中にお父さんがまだいる』ということで、この辺にいるということで、それを外から捜索しているところ」
この時点で、町には活動する消防隊の姿はほぼなく、院長らは持参した機材を使って、崩れた建物内で安否不明者を捜索する活動も担ったといいます。
度重なる余震で危険と隣り合わせの中あたった捜索。
泉川卓也院長
「僕は院長で隊員に捜せと指示を出す立場なので、彼らを危険な目に遭わせていいのか。ただ、家族の気持ちを考えるとできることをやってあげないといけないので」
翌日の3日、家族が捜していた男性は、自宅で見つかりましたが。
泉川卓也院長
「結果は亡くなっていた。家の柱と冷蔵庫にはさまっていた。無理に動かしてしまうと2次災害につながる可能性があったので、ご遺体をきれいにして家族に面会してもらった。その日の夕方に自衛隊が来てくれ、協力して遺体を収容できた」
独自の災害医療派遣チームは12年前に結成し、2016年の熊本地震をはじめこれまで十数回にわたって地震や水害の被災地に出動。
今回の一連の地震では道路がふさがれ支援が十分に届いていない状況下でしたが、自分たちで用意した食料や燃料も底をつきかけたため引き上げざるを得なかったといいます。
泉川卓也院長
「自衛隊や消防隊はある程度連携が取れるが、今回は全く連携が取れていなくて。それに加えて情報が錯綜していて避難所がどこにあるかも市の役場などが把握できていない状態だった。今までの被災地と比べると非常に出口が見えない恐怖感(があった)。一番はスタッフ。残って(病院を回して)くれるスタッフ、同行してくれるスタッフに非常に感謝している」
避難の長期化が懸念される中今後の支援については。
泉川 卓也院長
「薬の支援をしていかないと。お年寄りが多い分、医療の支援が非常に重要。表に出ていない避難所だったり被災者が多数いることを認識してほしい。日常生活の中で何かできることをチャンスがあればしてほしい」