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ある被爆者との出会いで継承を決意「84歳の平和案内人」世界へ発信したいと英語でのガイドも《長崎》

2024年8月2日 6:00
ある被爆者との出会いで継承を決意「84歳の平和案内人」世界へ発信したいと英語でのガイドも《長崎》

ある被爆者との出会いから活動をスタートした「平和案内人」の男性を取材しました。

被爆から79年、思いを新たにしています。

▼減ってしまった、被爆者が…

(被爆者 大庭 義弘さん)
「触ってみてください。これはサイダー瓶が溶けたもの。(ガラスは)1300℃が融点。長崎の道端でも2000℃あったからこんなに溶けた」

大庭 義弘さん 84歳。

長崎市の原爆資料館でボランティアガイドを務める “平和案内人” として活動しています。

(被爆者 大庭 義弘さん)
「減ってしまった、被爆者が。若い人に繋ぐ以外にない。平和活動を続けるためには。継承活動が大事になってきた」

被爆の実相を、次の世代に伝えていくため。

平和な未来のため、思いを新たにしています。

(被爆者 大庭 義弘さん)
「中学校の学生が毎朝、ここを通って行くのを見ていた。その記憶は残っている」

1945年、当時5歳の大庭さんは爆心からわずか800メートル。長崎市竹の久保町の瓊浦中学校の近くで暮らしていました。

(被爆者 大庭 義弘さん)
「電気も水道もない、そういう環境」

空襲が激しくなった7月。

当時の喜々津村にあった親戚を頼り、自宅を離れて家族で疎開することに。

8月9日は、朝から畑作業をしていました。

そして…午前11時2分。

(被爆者 大庭 義弘さん)
「向こう(長崎市の方向)から光が走ってきた。原子爆弾が爆発した瞬間、ドカンと大きな音がして、一帯がみんな揺れた」

爆風によって10mほど飛ばされましたが、大きなケガはありませんでした。

原爆投下の2日後、家族で長崎市内へ。

汽車で道ノ尾駅まで行き、自宅の竹の久保町までは歩いて向かいました。

(被爆者 大庭 義弘さん)
「焼野原、ここは。下にあった自宅も燃えてしまって、家財一切残していたものは何にもなくなってしまった。(8月9日に)ここにいたら助かったかどうかわからない」

大橋町で被爆した叔母や いとこなど6人と連絡が取れず、必死に探しましたが、行方は今もわからないままです。

(被爆者 大庭 義弘さん)
「原爆というのはこういうふうに広い範囲で人が亡くなってしまう、焼けてしまう。叔母、叔父、いとこたちと楽しく過ごした思い出はあるが、もうどうしようもない。それが戦争、悲しい」

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▼けがもない叔父が1か月後死亡 “自分も病気になるのでは” という恐怖
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