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発生から22時間後救出、両脚を切断した大学生 “最後の生存者”の19年「生かされた命だからこそ」JR福知山線脱線事故

2024年4月25日 6:00
発生から22時間後救出、両脚を切断した大学生 “最後の生存者”の19年「生かされた命だからこそ」JR福知山線脱線事故

 106人の乗客が亡くなったJR福知山線の脱線事故から4月25日で19年になります。この事故では発生から22時間後、奇跡的に救出された男性がいます。当時大学生だった“最後の生存者”の19年を追いました。(取材:読売テレビ宇佐美 彰)

 車いすバスケットボールの日本一を決める国内最高峰の大会「天皇杯」。ことし2月、1人の選手が出場しました。

 林浩輝さん、38歳。

 19年前ー。

 『ズームインスーパー』(2005年4月26日)
「先頭車両から救出されたのが林浩輝さん、19歳です」

 JR福知山線の脱線事故、“最後の生存者”でした。

 林浩輝さん
「今の自分を形成する第2の人生の始まり。約20年間の人生はあそこがスタート」

■現在は約40人の部下を持つ管理職

 林さんは今、日本生命の子会社『ニッセイ・ニュークリエーション』で働いています。

 障害者を積極的に雇用するため設立された会社で、社員の9割が障害者。40人ほどの部下を持つ管理職です。

 部下の田野乃愛さん
「どんなに忙しくても手を止めて親身に相談に乗ってくれるところが好きです」

 上司の井手さとみさん
「仕事に対してすごいストイック。いなくてはならない人」

 林浩輝さん
「責任はありますけど楽しくやらせてもらっています。やりがいを感じて」

■「景色が斜めに…」脱線した列車は線路脇のマンションに衝突

 19年前の4月25日、大学へ向かういつもの朝。林さんは、あの列車に乗っていました。

 林浩輝さん
「見えている景色がだんだん斜めに斜めに傾いてくるんですよ。その次に自分の足が浮き始めまして。倒れきるまでは絶対この手を離さないでおこうとしかできなかったので」

 脱線した列車は線路脇のマンションに衝突しました。
 106人の乗客が亡くなったJR福知山線の脱線事故。林さんは車内に閉じ込められました。

■周囲の乗客の声は途絶え…忍び寄る“クラッシュ症候群”

 林浩輝さん
「"おい運転手どういうことやねん"という風に運転手さんに呼びかける人もいれば、取り乱してしまって"痛い痛い痛い"としか叫ばない人もいましたし。"ああもうダメなんじゃないかな"と独り言のようにおっしゃる人もいましたし」

 救出活動は難航。飛び交っていた乗客の声は徐々に途絶えていきます。

 林さんの体は折り重なった何人もの乗客の下敷きになり、圧迫され続けていました。長時間圧迫された筋肉には毒素がたまり、解放されると全身に回ります。
 “クラッシュ症候群”。

 救出後に手遅れとなるのを防ぐため、医師は閉じ込められている林さんに現場で点滴や酸素の投与を始めました。

■「何言ってんねん。絶対助け出してやるから」

 日付が変わりました。刻々と限界が近づきます。

 現場で救急医療にあたった兵庫県災害医療センターの中山伸一医師
「午前4時過ぎだったと思うが、弱音を吐かれたことがあって。“みなさんお世話になりました”と。精神的な葛藤の中で、これはダメかなと思われた瞬間があったんだと思うんですけど」

 林浩輝さん
「そのとき手を握ってくださっていた方は、“何言ってんねん。絶対助け出してやるから”と。手をぐっと強く握ってくれて、“強く握り返せ”と」

■発生から22時間後救出 両脚を切断

 『ズームインスーパー』(2005年4月26日)
「先ほど午前7時すぎに、男性一人が救出されました。先頭車両から救出されたのが林浩輝さん19歳です」

 発生から22時間後。最後の生存者でした。

 一命はとりとめたものの両脚を切断。失ったものや後遺症と向き合う日々でした。

■事故現場で発した「なんで…」

 事故から3年。就職を前に、事故現場を訪れました。
 亡くなった人たち。生きている自分。林さんはかすかな声でこう漏らしました。

 「なんで…ほんまに」

■就職は総合職にこだわり広告代理店へ

 2008年3月、同志社大学を卒業。友人に支えられ、4年で卒業しました。
 就職は障害者としての採用ではなく総合職にこだわり、2008年4月、広告代理店に入社しました。

■「障害を言い訳にしたくない」直面した壁

 林浩輝さん
「障害を負ったからこうなったという言い訳はしたくないというのはあった、そのとき。気負いだけでやっていたので。でも気負いだけでやっていけるほど甘くないじゃないですか、社会は」

 直面したのは、仕事の厳しさと障害者という現実でした。
 深夜まで及ぶ連日の残業。外回りの営業や接待も車いすでは一苦労でした。体も心も疲れ果て、追い詰められていきました。

 林浩輝さん
「きつかったです。この体になって障害を負って、この先これを60歳までやっていくべきなのかというのは、繰り返し自問自答をして疑問に感じていた」

■広告代理店を退社「家族の存在が支えに」

 結婚して子どもが生まれたばかりでしたが、悩んだ末、2011年に退職。
 障害者向けの職業訓練校に通い、2013年に今の会社に転職しました。不安な日々の支えになったのはー。

 林浩輝さん
「家族の存在が支えになった。家族が一番大きかったですね」

■生活の柱は車いすバスケットボール

 林浩輝さん
「押すとブレーキ。何も触っていない状態がニュートラル」

 車の運転は手でアクセルとブレーキを操作します。週末になると車で必ず出かける場所があります。

 林浩輝さん
「今からバスケの練習で奈良に。きょうも仕事の疲れがとれていないんですけど、バスケに行ってゼーゼーハーハーって汗を流すとすーっとするんですよ、心も体も」

 仕事と家庭のほかに生活の柱になっているのが、車いすバスケットボールです。使うのは競技用の車いす。コートの広さやゴールの高さは健常者のバスケットボールと同じです。

 10年前、友人に誘われて始め、縦横無尽に動き回るスピード感や激しいぶつかり合いに魅せられました。

 所属する『奈良ディア―』ヘッドコーチ 本多英二さん
「バスケットのときはすごい集中しているし。終わると楽しく笑顔でしゃべってくれるし。飲みも好きなので」

 車いすバスケットボールに誘った友人の村上直広選手(BNPパリバ所属)
「お酒の場はひどい笑。知らない人を連れてきたりするんで。どこかのテーブルから」

■「生かされた命だからこそ、納得のいく道を歩めたら」

 林さんは今、こう話します。

「僕はこの体でどうやって幸せな人生、満足した人生を死ぬときに送れるかという方に目とパワーを向けています」

 事故で失ったもの。19年間で得たもの。
 
 もうだめだと思ったとき、力をくれた人たち。

 大学を卒業するころ、林さんはよくこんな言葉を口にしていました。

 林浩輝さん(当時22)
「生かされた命だからこそ、自分自身がくだらない、しょうもないものにしたくないですし、納得のいく道を歩めたらいいと思っています」

■記者プロフィール

宇佐美 彰
2004年読売テレビ入社。現在報道局デスク。JR福知山線脱線事故の発生時は入社2年目。以降、神戸支局や経済キャップとして取材を継続。林さんとは事故の翌年に知り合い、取材や交流を続けてきた。