【インタビュー】桂歌助、歌丸を語る第1回
東京・国立演芸場。例年4月中席(11日〜20日)には、桂歌丸師匠がトリを務める芝居目当てに、熱心なファンが集まった。今年は「桂歌丸追善」として、大勢の弟子やゆかりの芸人が出演し、師匠をしのぶ。二番弟子の桂歌助(56)もその一人。あらためて思いを聞いた。(全3回で3日連続配信、取材・文=渡邉寧久)
昨年、歌助は著書「師匠 歌丸 背中を追い続けた三十二年」(イースト・プレス)を出版。
演芸評論家筋にも「毎年、多くの“芸人本”が出ますが、師匠べったりではない距離感できちんと描かれていて、資料性も高い」と好評で、ロングセラーになっている。
歌助は新潟県出身で、地元の県立高校時代は甲子園を目指す高校球児。東京理科大に進学し、将来は地元に戻って高校教師になる予定だったが、路線を変更した。
「きっちり答えがある世界から、まったく逆の落語界に。方程式はないんだけど、何かしらの方程式を探すのが私の商売」という思いで師匠に接し、落語と向き合ってきた。
弟子入りが許されたのは1985年。前座として寄席の楽屋入りしたのは翌86年。
「師匠の家の近所、横浜に引っ越しましたが、前座時代の家賃、食事代、すべて出してもらいました。高座で着る着物も、師匠の家で仕立屋に作ってもらいました。費用は、ありがたいことに師匠持ちでした」と感謝し、「当時師匠は48歳。とんがっている感じがありました。『笑点』では人気者でしたが、寄席の楽屋に行くと大御所が大勢いて、楽屋では隅っこにいるという感じでしたね」と振り返る。
歌助のしくじり(=失敗談)も隠すことなく、著書でつまびらかにされている。「今思えば、一言報告しておけば済んだこと。何で報告しなかったんだろうって」と、しくじりを回避できたと冷静に考えることができるが、若いころは今ほど大人になりきれていない。
「何が師匠の逆鱗に触れたか分からない。僕が図々しく踏み込んでいろいろ聞ければいいんですけど…。だから後々まで謎のまま残っちゃうんですよね」と困ったように笑う。
そんなとき、助け船を出してくれたのは、おかみさん(=師匠の妻)だったという。「存在は本当に大きかった」と頭を下げる。
落語家にとって、おかみさんの存在は重要だ。たとえ師匠に対してしくじりをしても、おかみさんにハマって(=好かれて)いれば、かばってもらえる。
歌助もおかみさんのおかげで、複数回の“クビ危機”を乗り越えることができた。(第2回に続く)