もう一つのナチス人種政策“ヒトラーの子ども”…知られざる戦争の傷跡“刻まれた記憶”『every.特集』

第二次世界大戦中、ユダヤ人約600万人を含む多くの人々を迫害・虐殺したナチス・ドイツ。その一方で、"理想的なドイツ人"を数多く育てる計画が進められていたことは、あまり知られていません。その計画に翻弄された女性を取材しました。
アドルフ・ヒトラー(1889-1945)。ナチス・ドイツを率いて、世界中を第二次世界大戦の戦禍に巻き込みました。“史上最悪の独裁者”などと呼ばれ、組織的な大量虐殺“ホロコースト”を推し進めるため、多くのユダヤ人を強制収容所に移送しました。
鈴木あづさ NNNアウシュビッツ・ビルケナウ
「人々はこうした貨物列車でアウシュビッツに運ばれてきました。時として100人以上が詰め込まれ、多くの人が餓えや寒さで命を落としました」
ヒトラーはユダヤ人を“劣等人種”とみなし、ガス室などで600万人以上を殺害。さらに数百万人の少数民族や障害者、同性愛者なども殺害しました。
ホロコーストと並行して、ナチスがもう一つ推し進めていた人種政策があります。
その政策によって人生を翻弄された女性、カーリ・ロースヴァルさん。彼女はその政策のもと、ドイツ兵の父とノルウェー人の母の間に生まれ、生後すぐに母親から引き離され、施設で育ちました。
その政策とは、「レーベンスボルン」ドイツ語で「生命の泉」を意味する計画です。これはその計画によって生まれた赤ちゃんとされる映像。
ナチスは、金髪や青い目をした「アーリア人」を増やすことを目的として、ドイツ兵と理想的な外見をもつ女性の間に子どもを産ませ、“生命の泉”の施設で管理していました。中には、レイプされた女性もいたといいます。その施設で育ったカーリさん。
カーリ・ロースヴァルさん(80)
「私は抱きしめられることもなく、話しかけられることもありませんでした。ただ食事を与えられ、呼吸するだけの小さな物体だったのです」
カーリさん
「『自分は一体誰なんだろう?なぜ私には書類が何もないの?』と思うようになりました」
戦後はスウェーデンの孤児院に送られ、農場を営む夫婦に引き取られました。カーリさんは自分の“出生の秘密”を知らずに育ったといいます。
カーリさんは21歳の時に生みの母の存在を知り、母オーセさんを訪ねました。
カーリさん
「突然ドアが開いて、鏡に映った自分のような女性が目の前に立っていたんです。彼女は『カーリ、入って。あなたが誰か分かっているわ』と言いました」
母・オーセさんはナチス占領下のノルウェーでドイツ人兵士との間にカーリさんを出産しましたが、みずからの辛い体験から過去を封印していました。
カーリさん
「母は戦争の傷が深く、ずっとうつ病を患っていました。私たちはあまり多くを語りませんでした。ただゆっくり過ごしていました。私は何も聞かなかったし、母も何も話しませんでした」
生みの母・オーセさんは、父親について「彼はいい人ではなかった」と言ったきり、何も語らなかったといいます。
その後、カーリさんは「生命の泉」計画のことを知り、64歳の時に父親がドイツ兵であることがわかります。
父親を探す中で、一枚の写真を手に入れました。
カーリさん
「64歳の時に郵便で受け取ったんです」
「自分が赤ちゃんの時の写真を初めて見ました。目がとても悲しそうで、好きになれませんでした。『一人ぼっちで、誰にも気にしてもらえず、誰も寄り添ってくれない』と言っているようでした。生後1か月で、ドイツに送られる前に撮られた写真でした」
ドイツ兵の子どもを産んだ女性たちは、長く“偏見と差別”にさらされ、多くの人がみずからの体験に口を閉ざしてきました。
カーリさん
「母・オーセこそ本当の被害者です。まるでゴミのように扱われました。戦後、彼女たちは故郷ノルウェーでもひどい仕打ちを受けました。通りを引きずり回され、髪を切られ、他にもひどいことをたくさんされたんです」
カーリさんが大切なものを入れている箱を見せてくれました。
「この小さな鏡を見て。小さなおしろい、母のものなんです。おしろいを少し取ってここにはたけば、それが母です。母オーセが私に触れているの」
「あの戦争がなかったら、母はとてもいい人だったでしょう。戦争が母を変え、破壊したのです」
戦後、「生命の泉」の子どもたちは“ヒトラーの子ども” “ナチスの子ども”などと呼ばれ迫害されました。精神的な苦痛から、薬物に溺れたり、自殺したりした人も数多くいるといいます。
カーリさんは、自分を“戦争の残骸”のように感じていたと話します
カーリさん
「(戦争で)犠牲になるのはいつも女性や子どもたちです。私の人生から学ぶべきことは、女性と子どもに優しく、少なくとも傷つけないことです」
「そして一番大切なのは、世界に平和をもたらすこと」
記者
「次の願いは何ですか?」
カーリさん
「この世界に愛をもたらすこと。だって愛こそが今私たちに必要なものだから。そうでしょう?」
“戦争の悲劇を繰り返してはいけない”という教訓。しかし、それがいま脅かされていると訴える人がいます。
2025年1月、アウシュビッツ解放80年の追悼式典に出席したマイケル・ボーンスタインさん。ドイツ占領下のポーランドで生まれ、わずか4歳でアウシュビッツへ送られました。
マイケル・ボーンスタインさん(84)
「私はまだ4歳でしたから、記憶はかなりあいまいです。ただ、ひどい悪臭がしたことは覚えています。あとで分かったのですが、それは死体の焼ける臭いでした」
「空腹で死にそうだったのでゴミ箱をあさり、カビたジャガイモの皮を見つけて食べていた記憶もあります」
1945年、ソビエト連邦軍によって解放された収容所の映像に、幼いマイケルさんの姿が残されていました。生き残った子どもは約700人。
マイケルさんはアウシュビッツの記憶を伝えたいと、今回初めて孫を連れて来ました。孫たちに見せたのは、収容者の腕に刻まれた番号です。
マイケルさん
「アウシュビッツで入れられたんだ」
マイケルさんの娘・デビーさん
「大丈夫?メガネに涙がついている」
アウシュビッツの記憶を忘れないために、あえて番号を消さなかったといいます。
マイケルさんはインターネットで「ホロコーストは行われなかった」などとする主張を見つけ、真実を伝えなければと立ち上がりました。
マイケルさん
「今、憎悪と偏見が蔓延しているため、過去に起きたことを人々に伝え、話し合う必要があります。そして、二度と起こらないようにしなければなりません」
もう一人、戦争の教訓を今に生かしたいと、語り続けている女性がいます。ポーランド出身のユダヤ人、シルビア・スモーラーさん。
7歳の時に日本の外交官が発給したビザによってナチスの迫害から逃れ、日本を経由してアメリカに亡命しました。
当時、リトアニアの日本領事館に勤務していた外交官・杉原千畝。杉原が発給した“命のビザ”は、ホロコーストから多くのユダヤ人を救いました。
シルビア・スモーラーさん(93)
「杉原氏は『他に何ができただろう?私は良心に基づき行動したのだ』と(彼は)小さな決断を積み重ね、良心を築き上げてきたのです。これは今、学ぶべき大切な教訓です」
ナチスの人種差別政策から救われた1人として今、トランプ政権の差別的な政策に心を痛めていると言います。
シルビアさん
「アメリカ政府が何千人もの人々を国外追放しようとしている今、杉原氏の行動はより素晴らしいと感じます。たとえ政府が一時的に間違ったことをしても、正しい行動を取る方法はあるからです」
(3月26日『news every.』より)