【戦後80年】「焼夷(しょうい)弾の雨」終戦間近に55人が犠牲に 91歳の女性が初めて語った門司空襲
終戦から80年となることし、「いま伝えたい、私の戦争」と題して、いまを戦前にさせないためのメッセージをお届けします。今回は、終戦間近に55人の犠牲者が出た「門司空襲」を体験した、91歳の女性についてお伝えします。当時、小学生だった少女が目の当たりにした戦争。その記憶をたどりながら、若い世代に初めて思いを伝えました。
■川崎直人記者
「よろしくお願いします。」
北九州市門司区に住む岸本満寿恵(ますえ)さん(91)は、手書きのメモを見せてくれました。そこには「焼夷(しょうい)弾の雨」「空襲警報」という文字がありました。
■岸本満寿恵さん(91)
「あの中、よく逃げたと思いますよ。皆さんがお聞きになりたいことがあるんやったら。それこそ、80年前のあんな時代がきたら大変でしょう。」
体験したのは、終戦間近に起きた門司空襲です。1945年6月29日未明、アメリカ軍のB29およそ90機が門司港地区などに焼夷(しょうい)弾を次々に投下しました。3600を超える建物が全焼し、55人が命を落としました。
■岸本さん
「人が人として。それだけよ。あの頃はそんなの、ありませんからね。」
いまならまだ話せる。年を重ねる中でそう感じた岸本さんは、子どもの頃の凄惨な体験を記憶が確かなうちに伝えることにしました。
■北九州市平和のまちミュージアム スタッフ
「お待ちしておりましたよ。」
依頼を受け参加したワークショップのタイトルは「ある少女の足跡をたどる」です。少女とは、当時小学6年生だった岸本さんのことです。こうして若い世代に向けて話をするのは初めてです。
■大学4年生
「おうちと小学校は、どこですか。」
■岸本さん
「ここが門司駅ですね。わが家はここです。」
平和などについて学ぶ中学生から大学生12人に昭和初期の地図を使いながら、“空襲の記憶”を言葉にします。手元には準備したメモもありました。
■岸本さん
「お風呂の水に毛布をつけて、頭からかぶって外に出たら、もう道の両端の家が火事ですね。」
■大学4年生
「すごく熱いって感じなんですか。痛いって感じ?」
■岸本さん
「熱さはなかった。」
防空壕(ごう)へ逃げ込んだものの危険を感じ、地下用水路に必死で向かったあの日。およそ2時間に及んだアメリカ軍の空襲から逃れ、家族全員の命は助かったものの、住まいは焼け落ちました。
■高校3年生
「焼け落ちた光景を見てどう思いましたか。」
■岸本さん
「思いとかなかったよ。焼けたんやなとか、そんなんも全然よぎらんやったです。あー(という気持ち)だけですね。」
初めて、若い世代に向けて語った門司空襲の現実。その貴重な証言に耳を傾け、記録していきます。
■中学1年生
「岸本さんにとって、平和な生活とはどんな生活のことですか。」
■岸本さん
「朝、目が覚めて三度の食事がいただけて、家族とそれなりに過ごせることね。人が人として暮らせることね。」
■高校2年生
「戦争の記憶は何十年たっても薄れていいものではないと思うので、より多くの人に平和を伝えていきたいと思いました。」
■岸本さん
「あんなこと(戦争)が絶対あったらいけません。記憶もおぼろげになっています。周りに体験した人も少なくなりました。だから、この度、思ったことは、いまここでお話しできて、これだけ若い人がそれを受け継いでくださったら何よりです。」
80年前の体験が繰り返されないように。岸本さんが後世に伝えるメッセージです。
※FBS福岡放送めんたいワイド2025年1月23日午後5時すぎ放送