きっかけは震災後に届いた“かまぼこ板の絵”だった…1400km離れた岩手と愛媛結んだ「奇跡の物語」
2011年3月11日の東日本大震災。悲劇の裏側で起きた奇跡の物語をご存知でしょうか?
かまぼこ板の絵が届いた奇跡、そしてみかんが岩手で芽吹いた奇跡。2つの奇跡が今も岩手と愛媛を繋いでいます。
東日本大震災。あの日から13年。被災地に送った愛媛のみかんの種から芽が出て、育ちました。復興みかん、えがおの木。
2011年3月11日。あの日―
荒谷校長先生:
「津波が来るなと思ったので、ただただ皆で走って走って走って高台に上がりました」
岩手県宮古市立田老第三小学校。児童や先生は避難し全員無事でした。
この地震の2時間前にポストに投函された子ども達のかまぼこ板の絵が、震災をくぐりぬけ、地震の8日後、1400キロ離れたギャラリーしろかわに奇跡的に届いたのです。
浅野幸江館長(当時):
「無事についた6点の作品に私たち感激しましてね、『田老を呼びたいんです』って言う声が大きくなって」
その思いが届き、その年の夏。宮古市から新幹線などを乗り継ぎ、およそ23時間。かまぼこ板の絵を描いた田老第三小学校の3年生が愛媛県西予市城川町に招待されました。
そして、冬には
浅野さん:
「まだ遺体が見つかっていない親戚の人もいたりで、でもせめて、せめて、コタツでみかんを(食べてほしい)と思ったんですよ。愛媛のみかんはとにかく甘くておいしかったと。だから種をまいたんですって」
すると、岩手の地で愛媛のみかんの種から芽が…
岩手ではせっかくの命が枯れてしまう、今度は岩手から苗木が送られてきました。
里帰りしたみかんの木は「復興みかん えがおの木」と名付けられ、西予市明浜町でみかん農家の兵頭岩雄さんらによって大切に育てられています。
兵頭岩雄さん:
「震災のお見舞いにこっちからみかんを送って、その食べた種を土へ戻して芽吹かせてくれた。小学生の気持ちが話聞いた時は一番嬉しくて。1年育ててやっとこの大きさになった」
2年前には、ついに実をつけました。
浅野さん:
「看板を見てもらった人があ、そうだ、東日本大震災といって大変な震災があったんだと(思い出してほしい)」
「忘れない、忘れない!でも、そこから生まれるものもある育つものもある。そして絆はお互いが育てていくもの、絆から花が咲くよ実もなるよって。そして美味しいみかんを。日本一のみかんを頂きましょう」
かまぼこ板の絵、そしてみかんの木、2つの奇跡の物語を舞台にしたのは、みかん一座の座長、戒田節子さんです。
戒田さん:
「表したいのは生きる力。どんな時も希望を捨てないで生きていこうというのが一番大きいメッセージ」
東日本大震災が起きた13年前はまだ3歳、4歳だった高校生のメンバー。
坂川梓香さん:
「テレビとか新聞で聞いた話しか分からないので…」
スジュ清心さん:
「分からないのでやっぱり地震にあった人の動画とかをいっぱいユーチューブとかで調べて見て気持ちを考えて演じるようにしています」
舞台では大切な友達を亡くすという大事なシーンを担う高校生たち。命の物語をどう演じるか…悩み、懸命に考えていました。
坂川さん:
「私たちがニュースで見るのは何名亡くなったとか行方不明とか(だけど)大切な誰かひとりが亡くなったが重なった何百人何万人とかなので、すごい重いなって…」
そして岩手と愛媛の希望のシンボルとなったみかんの木の物語は…
庭瀬 葵さん:
「人の温かさが時代をや地域を超えて繋がっていて輪が繋がっているなっていう感じで、すごくあったかい気持ちになります」
庭瀬さんの母親:
「思いやり。やっぱりきっかけを作った人の思いやりが人を動かしてきたんで、そういうのにはちょっと触れて欲しい。それをこの後にも活かしてほしい」
夜遅くまで練習する日々が続きました。
そして今月、舞台「つながる奇跡」が2日間にわたり上演。暑い中、大勢の人が!いよいよ開幕です。
「ああ、この木ですね」
「はい」
「復興みかん、えがおの木」
「この木は、2011年、3月11日の東日本大震災の時からつながっとんですよなあ」
2つの奇跡の実話をベースに、オリジナルストーリーを交えて物語は展開していきました。
そして高校生が悩みながら作り上げた友達の死の場面は…震災という大きなテーマに向き合った夏。高校生4人は物語のバトンをしっかり受け取りました。
メンバーたち:
「辛かったー 楽しかったー楽しかった辛かったけど」
みかんの木が育ったように…
かまぼこ板にはやぶさの絵を描き、はやぶさの運転手が将来の夢だった佐々木翔太さん。
2020年に三陸鉄道に入社、鉄道マンになりました。
坂川さん:
「実際に翔太君が運転している列車に乗ったり、みかんを持って行ったりして、この物語を実際に震災を経験した人に伝えられたら良いなって思います」
そう、物語は岩手に続くのです。