皇室と軽井沢「戦争を忘れない」繰り返し“開拓地”を訪れる理由とは【皇室a Moment】
上皇ご夫妻が、8月下旬、静養のため軽井沢に滞在し、大日向の開拓地を訪ねられました。そこは終戦後の「全国巡幸」で昭和天皇が訪れたゆかりの地でもあります。日本テレビ客員解説員の井上茂男さんに、軽井沢と皇室の関わり、開拓地への思いについて聞きます。
■「戦争を忘れない」という思いを感じる開拓地訪問
――1つの瞬間から知られざる皇室の実像に迫る「皇室 a Moment」。きょうの瞬間はこちらです。
――井上さん、上皇ご夫妻が歩かれているのはどこかの高原でしょうか?
長野県の軽井沢町です。8月下旬、ご夫妻が静養で滞在された時の1シーンです。浅間山麓にあるキャベツ畑をお二人で歩き、カメラの取材に応じられました。
上皇后さま:「まだ(キャベツの葉は)巻いてないのね。まだ巻き始め」
上皇さま:「そう。それはまだ巻いてないみたい。巻かないのもあるようだから」
撮影されたのは「大日向開拓地」です。そこは、先の大戦前、旧満州(今の中国東北部)に移住し、敗戦で大変な苦労をして引き揚げてきた人たちが切り拓いた農地です。軽井沢はお二人がテニスコートで出会われた場所として知られますが、昭和天皇が戦後の混乱期に全国を回った「全国巡幸」で訪問し、入植した直後の人たちを励ました“昭和天皇ゆかりの地”でもあります。ご夫妻が毎年のように大日向を訪ね、そこで取材に応じられるところに、“戦争の記憶を忘れない”という強いメッセージを感じます。
――静養だけでなく大切な目的のあるご訪問なんですね。きょうは、この「大日向開拓地」を中心に、軽井沢と皇室の関わりにスポットを当てていきます。
■昭和天皇が戦後の「全国巡幸」で訪ねた“ゆかりの地”
まず、こちらの地図をご覧ください。
JRの新幹線の軽井沢駅の北に観光客で賑わう旧軽井沢の銀座通りがあります。お二人が出会われたテニスコートはすぐそばです。北西に火山の浅間山があり、その南の麓に「大日向開拓地」があります。
この場所には記念館が作られ、地区の歴史のほか皇室との関わりも展示されています。
昭和天皇が訪ねたのは、終戦の2年後、敗戦の混乱期に国民を励ます「全国巡幸」としてでした。『昭和天皇実録』などによると、昭和天皇は、開拓地の入り口で車を降り、大日向まで雑木林の小道をおよそ1時間歩きました。道は入植者たちが木を切って作った急ごしらえの道でした。入植者たちの身の上や開拓状況などを聞き、道端に並んだ人たちを励ましました。当時の側近の手記には、説明役の声が涙に幾度も曇ったと書かれています。
開拓地には、昭和天皇訪問の記念碑が建ち、詠んだ歌が刻まれています。
「浅間おろし つよき麓にかへりきて いそしむ田人 たふとくもあるか」
「田人(たひと)」とは、農家の人たちのことです。旧満州から引き揚げ、“浅間おろし”が吹く地に入植して農業に励む人たちに心を動かされたのだと思います。
■ 旧満州から苦労して引き揚げ入植した人たちの開拓地
――立派な記念碑からも、大日向の人たちが昭和天皇の訪問や歌を励みにしてきたことが伝わりますね。旧満州に移住したということですが、改めてその経緯をうかがえますか?
1932(昭和7)年に、日本は「満州国」の建国を宣言し、国策として多くの移民を送ります。「満蒙開拓団」などと呼ばれる人たちです。その数およそ27万人。みな日本での生活が苦しく、満州に夢を託したんです。しかし旧ソ連の参戦、敗戦の混乱、飢餓や病気などでおよそ8万人、3人に1人が命を落とし、生き残った人も命からがら帰国しました。
――3人にひとりというと、どれほど過酷な環境だったかと思いますし、希望を胸に向かった先で、そういった生活が待っていたというのは、想像してもし切れないほどのつらさや、苦しみ、悔しさもあったんじゃないかと思います。
こちらは上皇ご夫妻が開拓記念館を訪問された時の映像ですが、「大日向開拓地」を作ったのも、こうした満州に渡った人々でした。
戦前、長野県に同じ名前の「大日向」という村があり、苦しい村の財政を打開しようと満州に“村を分ける計画”が持ち上がり、764人が満州へ渡って「満州大日向村」をつくりました。しかし敗戦後、帰ってくることができたのは半数以下の310人でした。故郷に再び戻ることも出来ず、入植したのが浅間山麓の標高1100メートルの高地です。今ではキャベツやレタスの栽培で知られますが、当初はろくな住まいや食べ物、農機具がない中、冷害と闘いながら生きてきたんですね。
■軽井沢は上皇ご夫妻がテニスコートで出会った地
――上皇さまと軽井沢のご縁は、いつごろ始まったのでしょう?
こちらは1955(昭和30)年の映像です。この夏、昭和天皇は、香淳皇后、当時21歳の上皇さまと3人で軽井沢に滞在しました。この時も昭和天皇は歌を詠んでいます。
「ゆふすげの 花ながめつつ 楽しくも 親子語らふ 高原の宿」
“楽しくも語らふ”というところに親子水入らずで過ごした喜びが伝わってきます。上皇さまが親元から離されたのは3歳ですから、昭和天皇と香淳皇后にとっては成長した息子とのうれしい旅だったと思います。
上皇さまの初めての軽井沢訪問は、その6年前の1949(昭和24)年、当時、英語の家庭教師だったバイニング夫人を避暑先に訪ねられた時にさかのぼります。以後、毎夏のように軽井沢に滞在されました。また、上皇后さまにとっても、軽井沢は戦時中に半年ほど疎開した地でした。
――その上皇后さまと出会われるのも軽井沢だったんですね。
そうです。こちらは1958年の映像ですが、お二人はその前の年、1957年8月、軽井沢のテニスコートで出会われました。上皇さまのペアは、正田美智子さんと外国人の少年のペアと親善試合のダブルスで対戦し、敗れたことからロマンスが始まりました。婚約の会見が行われたのはこの映像の3か月後です。
◾️ご一家の“避暑先”になった軽井沢
結婚後、軽井沢はご一家の避暑先になり、お子さま方も小さい頃から軽井沢の自然に親しまれてきました。こちらは1歳半の浩宮さま(天皇陛下)です。上皇ご夫妻、そして叔父の常陸宮さまと散策されている様子です。陛下が引いていらっしゃるのは当時のブリキ製の救急車でしょうか。微笑ましいシーンです。
――元気いっぱいでかわいらしいですね。1歳半とのことですが、すでにお顔に面影がありますね。
また、こちらは1972(昭和47)年、6歳の礼宮さま(秋篠宮さま)と、3歳の紀宮さま(黒田清子さん)です。清子さんは軽井沢滞在中、大日向にある保育園に通い、地元の子どもたちと自然の中で遊びました。
――こうして見ますと、上皇ご一家の夏といえば軽井沢だったんですね。その後も避暑で訪ねられたんですか?
上皇さまが即位された翌年の1990(平成2)年、昭和天皇の喪が明けるとご一家は軽井沢に滞在されました。皇太子となった30歳の天皇陛下も交え、テニスを楽しまれる場面もありました。当時の最大の取材テーマは陛下のご結婚でしたので、動きをウオッチするために私も現地で取材しておりましたが、ご一家の皆さまが本当に軽井沢がお好きで、リラックスされているという印象を強く受けました。
――陛下が大きくなった後も家族みなで同じ軽井沢で過ごすというのはすてきですね。
しかし、その後しばらく間が空きます。
レポーター:「天皇皇后両陛下13年ぶりの軽井沢でのご静養です。今笑顔で集まった皆さんに手を振ってお応えになっていらっしゃいます。この13年間の間に駅舎も近代的になりました」
次に上皇ご夫妻が軽井沢を訪問されたのは、2003(平成15)年、13年ぶりのことでした。この間、軽井沢には新幹線が通り、駅の周辺は大きく変わりました。この訪問から、植物を介した“交流”が始まります。
◾️“ユウスゲ”を介した交流
それがこちらの「ユウスゲ」です。ユウスゲは夏の夕方、西の空を見上げるように黄色い花をつけるユリ科の花です。地元では「アサマキスゲ」と呼ばれます。
ご夫妻は、この年の夏、軽井沢の植物園を訪ね、開発でユウスゲの数が減り、種の入手に苦労していることを耳にされました。
お二人はかつて町から贈られたユウスゲを、御所の庭で育てられていました。数の減少を聞いて、この年の秋、黒田清子さんと3人で種を採り、植物園に贈られました。プレゼントは6年続き、種の数は5万8千粒に上ったそうです。ご成婚50年の2009(平成21)年4月10日、軽井沢町は両陛下の種から育てた苗を町民に配り、町の人たちはご夫妻のユウスゲへの特別な思いを噛みしめ、金婚式をお祝いしました。
――そんなすてきな交流があったんですね。
退位後、上皇ご夫妻のお住まいは、皇居から高輪、そして赤坂に移りましたが、いずれも庭にユウスゲを植えられているそうですから、ご夫妻にとって“特別な花”“思い出の花”と言っていいと思います。
ユウスゲは上皇后さまも歌に詠まれ、浅間山を望む町立病院の一角に歌碑が建っています。
――2002年に「夏近く」と題して詠まれた歌が、こちらです。
「かの町の 野にもとめ見し 夕すげの 月の色して 咲きゐたりしが」
ユウスゲを思い出し、軽井沢を懐かしまれた歌だと思います
――上皇ご夫妻の軽井沢とユウスゲへの思いの深さが伝わる歌ですね。
◾️大日向だけでない「開拓地」訪問
冒頭、大日向の歴史、皇室との関わりについてお話ししましたが、旧満州などから引き揚げてきた人たちとの交流は、大日向だけではありません。
2005(平成17)年8月、この年は戦後60年でサイパン島を慰霊された年ですが、お二人は結婚間近の黒田清子さんと3人で長野県南牧村にある野辺山の開拓地を訪ね、畑に入ってレタスを収穫されました。この場所も旧満州などから引き揚げた人たちが入植した開拓地でした。
私も現地で取材していましたが、お二人はレタス農家の人たちと交流し、上皇さまが「ご苦労が多いと思いますが、開拓地で立派に農業を安定させていることを大変心強く思っています」と話されていたことを思い出します。
この戦後60年の夏には、那須御用邸での静養中、中学2年生だった孫の小室眞子さんを栃木県内の「千振(ちふり)開拓地」にお連れになりました。旧満州からの引き揚げは、藤原ていの体験を元にした本『流れる星は生きている』が有名ですが、眞子さんはこの本を読んでいたそうで、上皇后さまは戦中戦後のことに少しでも触れてほしい、と誘われたということです。
印象深いのは、戦後70年の2015(平成27)年、太平洋の島国パラオで慰霊された後、開拓地を相次いで訪問されていることです。最初にパラオから引き揚げた人たちが入植した宮城県の「北原尾(きたはらお)」、続いて栃木県の「千振」、そして軽井沢の「大日向」です。「北原尾」は北のパラオという意味の命名だそうです。
――「戦後何十年」という節目の年には海外の慰霊だけでなく、国内の開拓地に足を運んで、苦労した人たちに心を寄せられたんですね。
◾️毎年の訪問に見える「戦争を忘れず伝えていく」――という思い
上皇さまは天皇として最後の誕生日会見に臨んだ2018(平成30)年12月、次のように話されました。
上皇さま:
「先の大戦で多くの人命が失われ、また我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました」
お言葉にある「多くの犠牲」を悼むのが慰霊、「忘れない」という思いの表れの一つが開拓地訪問ではないかと思います。伝えることへの、思いの強さを感じます。
そして、今の天皇陛下も、皇太子時代の2016(平成28)年に大日向との関わりなどについて述べられています。
――こちらです。
天皇陛下:
「私自身、昭和40年以降、毎年のように夏の軽井沢で両陛下とご一緒に沖縄豆記者の皆さんにお会いしたり、戦後引き揚げてきた方々が入植した軽井沢にほど近い大日向の開拓地を両陛下とご一緒に何度か訪れるなど戦争の歴史を学び、そして両陛下のお気持ちに直接触れてきております」
実際、陛下はご両親とたびたび大日向に足を運び、引き揚げや開拓地の歩みを理解されてきました。
――陛下や秋篠宮さまは、こうして子どもの頃から戦争やその後の歴史について学んでこられたんですね。
今年5月、上皇ご夫妻は栃木県の日光を訪問されましたが、その時の取材の場所は、上皇さまが戦争中に疎開した「田母沢御用邸」の庭でした。
そして8月の静養は、大日向のキャベツ畑を散策されるシーンです。取材の設定に“戦争の記憶を忘れてはならない”というメッセージが込められているのではないかと思います。
いま「開拓地」と聞いても、戦後79年を経て親から子へ、子から孫へと世代が移り、そこが旧満州など海外から引き揚げてきた人たちが入植して切り拓いた地――という記憶は薄れつつあります。その歴史や経緯に気付かせてくれるのが上皇ご夫妻の訪問で、そこを訪ねる意味や、戦争を次の世代に伝えようとされるお二人の気持ちを思います。
――軽井沢というと、観光地としても上皇ご夫妻のゆかりの地としても有名ですけれども、そのすぐ近くにこうして大変な苦労の上に切り拓かれた大日向開拓地があるということは忘れてはならないと思いました。そして上皇ご夫妻が毎年訪問される意味、思いを、私たちもしっかり受け止めていきたいと感じました。
【井上茂男(いのうえ・しげお)】
日本テレビ客員解説員。皇室ジャーナリスト。元読売新聞編集委員。1957年生まれ。読売新聞社で宮内庁担当として天皇皇后両陛下のご結婚を取材。警視庁キャップ、社会部デスクなどを経て、編集委員として雅子さまの病気や愛子さまの成長を取材した。著書に『皇室ダイアリー』(中央公論新社)、『番記者が見た新天皇の素顔』(中公新書ラクレ)