貴重映像で振り返る終戦秘話と天皇陛下“平和への思い”【皇室 a Moment】
■皇室に眠る終戦が決まった地下壕
きょうはこちらの「瞬間」からご覧いただきます。
「御文庫附属庫」という施設です。79年前の1945(昭和20)年8月14日、昭和天皇の、いわゆる“聖断”によって日本の終戦が決まった部屋です。
――ここで終戦が決められたんですね。
この場所、実は、皇居の地下にひっそりと眠っています。
――皇居にそんな場所があったことを知らなかったです。
戦時中に作られた「御文庫附属庫」と呼ばれる防空壕の一室で、まさに歴史の転換点となった場所です。皇居が“宮城”と呼ばれていた時代です。2015(平成27)年、戦後70年の節目を迎え、初めて中にテレビカメラが入って詳細に記録され、映像が公開されました。公開に先だち、皇太子時代の天皇陛下も現場に入り、記者会見で振り返られています。
――その部分がこちらです。
天皇陛下:「ここが非常に重要な役割を果たした場所であるということを改めて実感し(中略)その当時は一体どのような感じであったのだろうかと、あれこれ想像を巡らせました。昭和天皇がここに座っておられたことなどを伺って、その当時にタイムスリップしたような深い感慨を覚えました」
――現場に入られた天皇陛下の心の動きというのがお言葉から伝わりますね。
昭和天皇が“聖断”を下した最後の会議は、絵にも描かれていますので、9年前の体験は、想像を巡らせながら当時をしのぶ貴重な機会だったと思います。今年も“慰霊の夏”がめぐってきました。来年はいよいよ戦後80年を迎えます。
――きょうは、終戦の秘話を振り返り、天皇陛下の慰霊と平和への思いにスポットを当てたいと思います。
■戦後70年で初めて入ったテレビカメラ
――まずこちらをご覧ください。
こちらは空から撮影した皇居です。
天皇ご一家のお住まいが「御所」で、一帯が「吹上御苑」です。その北側に、かつて昭和天皇・香淳皇后が住んだ「吹上大宮御所」、かつての「吹上御所」が残っています。もとは、先の大戦前に空襲に備えて作られた頑丈な防空壕、「御文庫」と呼ばれる防空施設でした。そのすぐ近く、小高い丘の地下に作られたのが、冒頭でご紹介した「御文庫附属庫」と呼ばれる防空壕です。
この場所は、長く放置されてきましたが、戦後70年の夏、上皇さまの意向を踏まえて、宮内庁が初めてテレビカメラを入れて記録し、公開しました。
この建物が、戦時中「御文庫」と呼ばれた後の吹上大宮御所の一部です。香淳皇后がお元気だったころ、お出かけをここで取材したことがあります。「御文庫」と聞くと書物の収蔵庫を想像しますが、外に「防空壕」と言えないための“言い換え”です。
昭和天皇と香淳皇后は、戦局が悪化した1944(昭和19)年からおよそ17年にわたって「御文庫」で暮らしました。ここから吹上御苑の森を歩いて行くと、大本営の会議室のあった防空壕「御文庫附属庫」の入り口に行き当たります。
カメラは長く放置されていた「御文庫附属庫」の中に入っていきます。かつてはお住まいの「御文庫」の地下からこの「附属庫」まで、地下トンネルでもつながっていました。コンクリートの殺風景な通路を通って行くと、分厚い鉄の扉が現れます。
――かなり分厚い鉄の扉。30センチくらいありますか?
衝撃に耐えられる大変に堅牢な作りとなっていました。その奥に「会議室」や「御休所」などの部屋が設けられていました。
そしてこちらが「附属庫」の会議室です。1945(昭和20)年8月10日と14日の2回、昭和天皇が出席してポツダム宣言を受諾するかどうかの「御前会議」が開かれました。当時の鈴木貫太郎首相が昭和天皇に”聖断”を仰いだ場所です。映像で見る会議室は、床や壁の木材が腐って崩れ、鉄板の天井は赤さびに覆われています。分厚い扉は激しくさびついています。
――中は結構広くていろんな空間があることがわかりますね。
■会議など5つの部屋から成る「附属庫」
映像はトイレも映し出しています。戦前、洋式の便器もあったことに驚きます。
こちらはその横の小さな部屋、「御休所」です。昭和天皇が休むための部屋でした。この部屋で昭和天皇は自ら吹き込んだ終戦のラジオの放送を聞いています。昭和史の最も重要な空間の一つで、9年前に公開されたときは歴史家たちからも注目されました。
こちらは「附属庫」の簡略化した見取り図です。細い通路を入って行くと、内部には主だった5つの部屋があり、メインとなるのが「会議室」です。その横が「御休所」、昭和天皇がラジオの放送を聞いた場所です。
時間が50年ほどさかのぼりますが、こちらは戦後20年の1965(昭和40)年、宮内庁が公開した「御文庫附属庫」の写真です。当時はまだ終戦直前の姿をとどめていて、様子が伝わってきます。
――戦後20年がたっているとはいえ、まだ壁や扉などが残っていて、当時の厳かな様子、雰囲気が伝わってきます。
先ほど、戦後70年の年に内部を見学された今の天皇陛下の発言を紹介しましたが、ビデオを見るだけでも息詰まる思いがしますので、現場に入られた時の衝撃はさぞや、と思います。私はかつて吹上御苑の自然観察会の取材で附属庫の脇を通っただけですが、鬱蒼とした森の中に現われた分厚いコンクリートの構造物に圧倒されました。中から漏れてくる冷気を不気味に感じたことを思い出します。
――映像を見ただけでも暗そうな独特の雰囲気があります。
■「日本のいちばん長い日」――終戦前夜に起きたクーデター未遂
「終戦の詔勅」(現代語訳・所功 京都産業大学名誉教授)
「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ 茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク」
現代語訳:私(昭和天皇)は、深く世界の大勢と帝国(日本)の現状とを考え、非常の措置を以って時局を収拾しようと思い、ここに忠良な国民の皆さんに知らせます。
「堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」
現代語訳:耐え難いことを耐え忍び難きも忍ぶことによって、将来の世代のために平和への道を開きたいと思います。
――8月15日、戦争の終結を告げた「玉音放送」ですね。
はい、「玉音放送」は、1945(昭和20)年8月15日の正午、ラジオで放送された「終戦の詔勅(しょうちょく)」です。実は、先ほどの音声も2015(平成27)年に宮内庁から公開されました。それまで私たちが聞いていた音声は、GHQ(連合国軍総司令部)が当時の宮内省から借りたレコード盤から複製した音声と言われています。
宮内庁は戦後70年にあたって、ブリキの缶に入れて保管してきた「御物」のレコード原盤を、専門家に頼んで針を落として再生してもらい、デジタル録音し直した音声を公開しました。その結果、昭和天皇の声はより明瞭になり、より高い声だったことも分かりました。今の天皇陛下も上皇ご夫妻とともに原盤の音声を聞かれています。
昭和天皇の放送は、終戦前夜の深夜に、当時の宮内省の庁舎内で録音されました。当時の録音は、レコード盤に針を落として音を刻む大がかりな作業でした。そのレコードは「玉音盤」と呼ばれますが、終戦前夜、徹底抗戦を訴える陸軍の一部将校が、“玉音盤”を奪おうと宮城を占拠する“クーデター未遂事件”も起きました。
――そんなことがあったんですね。
終戦前夜の秘話は「日本のいちばん長い日」という本になり、2度映画化されています。皇居が占拠され、天皇を側近くで守る近衛師団長が殺害され、録音技師らが監禁されましたが、15日朝、クーデターは未遂に終わりました。「玉音盤」は無事に内幸町にあった放送局に運ばれ、放送されます。こうしてラジオ放送を通じ、国民は日本の降伏を知ることになりました。原盤の音声ははっきり聞こえますが、ラジオの放送は雑音が多く、よく聞こえなかったという証言も少なくありません。
――玉音放送自体は番組などで聞いたことがあったんですが、放送されるまでにそのような経緯があったことは全く知らなかったです。
■貴重な証言“3回目の録音を希望した昭和天皇”
この録音に立ち会った当時の宮内省幹部の貴重なインタビューが日本テレビに残されています。
筧素彦 宮内省庶務課長(当時):「陛下(昭和天皇)がお入りになるときにお顔を拝見したらあまりに憔悴していらっしゃるんで、はっと胸をつかれ何とも言えない気持ちだったんです」
「最初に吹き込みをなさったときに何しろ書写の文句が難しい読みづらい文句なものですから、陛下(昭和天皇)がちょっと途中でお疲れになったようなことで、必ずしも100%うまくいかなかった。陛下がご自身もう一度やるとおっしゃったんです。2度目にまた陛下が吹き込みをなさったんですけれど、これもまた前と同じようなことでどちらがいいともつかない程度の出来だったんです。陛下はもう一度やるとおっしゃったんですけれども、もうあまりに畏れ多いし端でうかがっていても何とも言えない悲痛な内容ですしもうこれ以上は結構でございますからというのでご辞退申し上げて、陛下はそこでまた吹上(御文庫)の方へお帰りになった」
筧氏は翌15日、この2回目の録音の玉音盤を放送局まで運び、スタジオからの放送にも立ち会っています。
筧氏:「さすがに(放送が)始まった時は、前にうかがった文句ではあるけれども、もう皆誰しもそうだったんですが、涙、それこそ滂沱としてといいますか、涙が出て仕方ありませんでした。皆涙を拭えずそこで立ってうかがったわけでした」
■前代未聞 行間に9文字が書き入れられた「終戦の詔書」
こちらはこの時、昭和天皇が読み上げた「終戦の詔書」の原本です。驚くのは、天皇が目を通して署名し、御璽が押された原本ですが、挿入する9文字が、行間に小さく書き入れられていることです。“前代未聞”の詔書です。
――なるほど公式の文書ですが、書き直す時間もないくらい、8月15日に向けてよほど緊迫した中で作られたということが分かりますね。
文書の文言を巡って閣僚間の激しい意見のぶつかり合いがあって、その落とし所を探っていく中で落ちついたのが、あの書き加えたというところなのではないでしょうか。「日本のいちばん長い日」の映画をみますと、そういう雰囲気も伝わってきます。“クーデター”が収拾されなければ日本はどうなっていたかと思うとぞっとしますね。
■終戦の7年後、独立の4日後に行われた「全国戦没者追悼式」
「全国戦没者追悼式」が初めて行われたのは、終戦から7年後の1952(昭和27)年5月2日、場所は新宿御苑でした。「サンフランシスコ平和条約」が発効して日本が独立を回復した4日後です。毎年8月15日に行われるようになったのは1963(昭和38)年からで、会場は、日比谷公会堂、靖国神社と移り、戦後20年の1965(昭和40)年8月15日から日本武道館で行われるようになりました。
昭和天皇:「追悼式に臨み、往時をしのび、また内外の現状を見て、感慨まことに深いものがある。ここに全国民とともに、国運の進展と世界の平和を祈り、心から追悼の意を表する」
日本武道館は前の年に建てられたばかりで、東京オリンピックの柔道会場となりました。
――追悼式は最初から8月15日に行われたというわけではないんですね。
そうなんですね。
■皇室50年の「慰霊の旅」、サイパン島など海外でも慰霊
そして、皇室は「終戦の日」以外でも先の大戦の犠牲者の慰霊を大切にしてきました。
象徴的なのは、戦後50年の1995(平成7)年に行われた「慰霊の旅」です。天皇皇后時代の上皇ご夫妻は、7月26日に長崎、翌27日に広島、8月2日には日帰りで沖縄を訪ね、「国立沖縄戦没者墓苑」で慰霊し、翌3日は東京大空襲の犠牲者らをまつる「東京都慰霊堂」で花を供えられました。
前の年には、東京からおよそ1200キロ離れた硫黄島を訪れ、慰霊碑に花を供えられています。
――本当に国中を回られたんですね。
一方、海外での初めての慰霊訪問は、戦後60年の2005(平成17)年、太平洋のサイパン島でした。上皇ご夫妻は日本人の多くが身を投げた「バンザイ・クリフ」などで深々と拝礼されました。
戦後70年の2015(平成27)年には、パラオのペリリュー島を訪ねて慰霊されています。
■天皇陛下や愛子さまに受け継がれる「4つの日」
上皇さまは1981(昭和56)年に「どうしても記憶しなければならないことが4つある」と、沖縄戦終結の日、広島と長崎の原爆の日、終戦の日を挙げ、「平和のありがたさをかみしめたい」と述べられました。
そして、「子供たちに強く印象づけられるよう努力していく」というお気持ちも示されています。
――そういったお気持ちが今の両陛下に受け継がれているのですね。
「4つの日」は今の天皇ご一家も大切にされています。今年の広島、長崎原爆の日もご家族で黙とうされました。
こちらは1981(昭和56)年、陛下が広島の原爆慰霊碑で初めて慰霊された時の映像です。大学の卒業論文の資料収集のために岡山県などを訪ね、広島を訪問されました。また、長崎での慰霊はこの4年前の1977(昭和52)年、学習院高等科の春休み、九州旅行の折でした。当時の長崎新聞には「九州に行くならぜひ長崎にと深く心に決めておられた」という侍従の話が載っています。多感な時期に“行かねばならない”という強い思いだったんだろうと思います。
2015(平成27)年、戦後70年の夏、陛下は中学2年生の愛子さまを伴って戦争に関する2つの特別展をご覧になりました。いずれも戦時中や終戦直後の暮らしぶりを紹介する企画展で、愛子さまに平和のありがたさを伝えようとされたと思いました。戦争体験者らとも懇談されています。
――この戦争と平和への思いは、上皇さまから陛下そして愛子さまへと受け継がれているんですね。
そう思います。
◾️天皇陛下 展示や映像などから知ろうとされる戦争の悲惨さ
陛下の慰霊で印象深いのは、2007(平成19)年、モンゴル訪問時に日本人の慰霊碑を訪ねて供花されていることです。旧ソ連によるシベリア抑留はよく知られていますが、モンゴルでもおよそ2000人が亡くなりました。かつてソ連圏だったモンゴルで、皇太子として慰霊された意味は大きいと思います。
――海外でもこうやって慰霊を行われているんですね。
陛下の慰霊や平和への思いは、去年のインドネシア訪問前の記者会見からよくわかります。
天皇陛下:「私たち自身は、戦後生まれであり、戦争を体験していませんが、上皇上皇后両陛下からも折に触れて戦時中のことについて伺う機会があり、両陛下の平和を大切に思われる気持ちをしっかりと受け継いでまいりたいと思っております」
天皇陛下が決まって言われるのは、「戦争を知らず、平和の恩恵を享受してきた世代」というフレーズです。だからこそ、陛下は「展示や講演、書物、映像など、過去の経験に少しでも触れる機会を通じて、戦争の悲惨さ、非人道性を常に記憶にとどめ、戦争で亡くなられた方々への慰霊に努めたい」と話されます。それが陛下の“基本姿勢”だと思います。
来年はいよいよ戦後80年の節目を迎えます。その年に“戦争を知らない世代”の陛下が、どのように戦没者を悼み、どのように平和への思いを表されるのか、ウクライナやパレスチナ自治区のガザ地区で多くの命が失われている時代だからこそ、大きく注目しています。
――そうした部分も注目したいと思いますし、皇室だけでなく私たちも「戦争を知らない世代」として引き続き知ることを続けていきたいと、改めて感じました。
【井上茂男(いのうえ・しげお)】
日本テレビ客員解説員。皇室ジャーナリスト。元読売新聞編集委員。1957年生まれ。読売新聞社で宮内庁担当として天皇皇后両陛下のご結婚を取材。警視庁キャップ、社会部デスクなどを経て、編集委員として雅子さまの病気や愛子さまの成長を取材した。著書に『皇室ダイアリー』(中央公論新社)、『番記者が見た新天皇の素顔』(中公新書ラクレ)