「泣き虫だった私を…」元東大総長 80年ぶりに書いた恩師への手紙

元東京大学総長の吉川弘之さん、91歳。太平洋戦争末期、小学5年生で親元を離れ集団疎開をしました。軍の学校に入った先生に書いた6通の手紙。そこに秘めた葛藤、そして80年ぶりに書いた手紙で恩師に伝えた決意とは―。(報道局調査報道班 菊地庸太)
太平洋戦争が始まった1941年12月8日。当時、吉川さんは8歳でした。
吉川弘之さん
「開戦だっていう真珠湾攻撃をしたのは自宅で風呂に入っている時だったと思います。親にせかされながら、それが何を意味しているのか、何か非常に大人が真剣になって小さな声で議論していたのは覚えている」
東京・赤坂区(現港区)の青南国民学校に通っていた吉川さん。開戦から3年、戦況が悪化の一途をたどっていた1944年8月、米軍の本土空襲に備えるため、小学5年生の吉川さんは東京・神代村(現調布市)への集団疎開を余儀なくさせられました。
吉川弘之さん
「家を離れるのが嫌でした。しかし国の事情もあるということで。その当時の日本が国家としてやってることなんだと子供心にも分かりましたので、戦争ってことの重大性も含めて覚悟はできていたわけです」
■一緒に疎開「優しい人でした」
“東京から一番近い疎開先”といわれた神代村。電車に乗って一緒に疎開をしたのは担任の飯塚義一先生でした。当時まだ20歳で子供たちと9歳しか離れていないため“お兄ちゃん先生”として慕われていました。スポーツ万能の体育教師で体操の空中回転やバック転を披露してくれたといいます。
吉川弘之さん
「とにかく立派な体、優しい人でした」
毎日寝食を共にする生活。ただ疎開を始めて1か月半、飯塚先生は群馬県にある前橋陸軍予備士官学校へ入るため神代村を離れることになりました。
吉川弘之さん
「別れがつらかったのは覚えている。疎開生活は苦しかったけど飯塚先生のおかげで前向きな生活ができたと思う」
■345通の手紙
飯塚先生と別れてからまもなく。子供たちは毎日のように順番で飯塚先生に手紙を書き始めます。1944年10月から1945年6月までの8か月間に送られた手紙は345通。吉川さんも合わせて6通の手紙を飯塚先生に書いていました。
「飯塚先生、お元気でいらっしゃいますか。僕も毎日元気で集団生活を過ごしています。エイヤアと毎日元気のいい声で剣道をやります。防空頭巾をかぶってやるので脱ぐと湯気が立ちます。この頃は毎日のように警戒警報が発令され、空襲も時々発令されましたが僕達の寮にも何の被害もなくて済みました」
「僕は毎日毎日楽しい寮の生活を送っています。よくこのごろ兵隊ごっこをやります。白軍赤軍に分かれて点数の取りっこです。ずっと前から村山君と動物の勉強をしています。鶏も雪で白くなった小屋の周りをびっくりしたように眺めています」
「昨日は兵隊ごっこをしました。草の中や林の中へ隠れたりしてとても面白いですよ。奇襲をした時などとてもいい気持ちです。僕と村山君と三ツ木君は鶏の係です。毎朝水をやったり米をやったりしています。とても鶏がかわいく感じます」
クラスみんなでかわいがっていた鶏。しかし、思いもよらぬ出来事が。B29を地上から撃退するための日本の高射砲、その破片が落下し、鶏小屋のトタン屋根に直撃したのです。
吉川弘之さん
「鶏が戦争のために死んじゃった。結局、寮の人に頼んでおつゆにしてもらった。みんな泣きながらそのおつゆを飲んだ記憶があります。戦争は非常に嫌なものだと思いました」
「勉強の方は皆で頑張っていますからご安心下さい。敵はこしゃくにも硫黄島に上陸してきました。僕たちも早く大きくなって米英撃滅に邁進したいと思います。子供でも今では頑張らなければいけませんね」
1945年2月19日、米軍は小笠原諸島の硫黄島に上陸。本土決戦が現実味を増す中、吉川さんの手紙にも変化が現れていました。
吉川弘之さん
「戦争は勝つか負けるかしかない。勝たなければ家族もみんな殺される。子供なりに考えている。勝たなきゃいけない、日本を救わなければいけない。そういう立場に立つと友達の間では“弱虫の吉川”なんだけど、自分の心の中に捨てられないものが芽生えてきた」
「昨日も雪が降りました。おとといは暖かかったですがまた昨日寒かったですね。でもこれくらいのことには負けません。ボーイングは昨日もまたやってきましたね。生意気です」
日常的に襲来するようになったB29。吉川さんが目の当たりにしたのは簡単に命が失われていく戦争の現実でした。
吉川弘之さん
「B29に小さな飛行機が体当たりするわけ。多分、零戦だと思う。1機当たっても平気、ゆらりともしない。2機当たってもだめ。3機目くらいでようやく傾いて落ちていく。でもパラシュートで人がぱっと出てきてね。零戦の方はぶつかってそのままくるくるくると完全に飛行性能を失って、ばーっと落っこちていなくなる。当然、亡くなったわけでしょ」
1945年3月10日の東京大空襲。吉川さんの手紙には前橋にいる飯塚先生を心配する様子が。
「9日10日の空襲で前橋の方はどうでしたか。本所、深川、日本橋の方は相当に燃えたそうですが僕たちの寮は何ともありませんから安心して下さい。夜の空襲では一番ひどく燃えたらしいです。本当に憎らしい米英ですね。硫黄島の戦況はますます苛烈を加えてきました。ルソン島の決戦も随分長く続きますね。もうじき(鶏)20羽がくるとの話を聞いて係の村山君、兼子君、谷川君と僕は意気込んでいます」
この手紙を含め、東京大空襲直後に書かれた子供たちの手紙のほとんどが国による検閲を受けていました。
■6通の手紙「飯塚先生への問いかけだったのかな」
吉川さんはその後、神代村を離れ親戚の別荘がある長野県の軽井沢へ縁故疎開。小学6年生の夏、そこで終戦を迎えました。戦時中、飯塚先生に書いた6通の手紙。80年ぶりに読み返した吉川さんが口にしたのは、自分一人では抱えきれなかった戦争に対する疑問と葛藤でした。
吉川弘之さん
「戦争の不思議。人間を強くしてしまう面と弱い面が頭の中で両立しながら、何とか具体的な道を探すという、非常にそこに困惑というか子供なりの矛盾を感じながら文章を書いている気がしますね。飯塚先生への問いかけだったのかな、今から思えば」
■80年ぶり…“7通目”の手紙
吉川さんは私たちの取材後、101歳となった飯塚先生に宛てて80年ぶりに“7通目”の手紙を書きました。
吉川弘之さんから飯塚義一先生への手紙(2025年3月着)
「飯塚義一先生、すっかりご無沙汰しています。飯塚先生に宛てて書かれた10歳の手紙は寮生活の楽しさだけでなく、戦争とは何か、同じ人間を憎むことは悪いことなのに、そこでは敵を憎むことをしなければならないという矛盾をどのようにすれば良いのか悩みながら書かれることになります。友達と話すことは、はばかられることと感じ、かといって寮にいる大人たちに聞くこともできない。最後の手紙は鶏の世話の報告で終わっていますが、飯塚先生に話せばきっと教えてくれるだろう、しかし前橋で忙しく訓練をしている飯塚先生を煩わせることはできないという思いがあったのだと思います」
「飯塚先生に教わったこと、飯塚先生の生き方から学んだこと、その多くは私のそれからの80年に大きな影響を与えています。それは泣き虫だった私を、その後の人生で私を強くしたのでした」
■80年ぶりの手紙「とってもうれしかった」
都内で家族と暮らす飯塚義一先生。教え子である吉川さんから80年ぶりに手紙を受け取りました。
飯塚義一先生
「吉川君からの手紙を読んでとってもうれしかった。そんなに立派なことを教えた覚えはないので吉川君が感謝してくれていることに驚きました。当時は、アメリカと戦うならもう教師には戻れないと思っていたので、ただ夢中に一生懸命やっただけでした。子供たちに戦争の話はしなかった。教えたことは、人間はみんな平等だということ。勉強ができる子でも勉強ができない子をバカにするようなことは絶対にしちゃいけない。吉川君には返事を書きました。また会いたいですね」
■世界は混乱…「これから考えていきたい」
東京国際工科専門職大学の名誉学長を務めるなど、91歳となった今も現役で後進の育成に励む吉川さん。飯塚先生への手紙の最後はこうつづられています。
「今世界は混乱の状況にありますが、その中でどのように発言していくか、発言には勇気がいります。でも飯塚先生からいただいた強さで、これから考えていきたいと思っています」
【お知らせ】
「疎開児童からの手紙」は飯塚義一さんの寄贈により現在は調布市郷土博物館が所蔵。
手紙の一部を常設展示しています。入館無料。月曜休館。