東京大空襲“無差別爆撃”はなぜ行われたのか 米司令官の肉声から内幕に迫る『every.特集』

1945年3月10日、東京に約300機のB29爆撃機が飛来し、「焼夷弾」32万発を投下。街を焼き尽くし、10万人を超える市民が犠牲となった東京大空襲。なぜアメリカは“無差別爆撃”を行ったのか。司令官の肉声から、その内幕が見えてきました。
80年前の3月10日、東京はまさに廃墟と化していました。深夜、わずか2時間半の空襲で、10万人を超えるとされる市民の命が奪われたのです。
大久保房子さん(94)
「『私はこんな所で死にたくないよ、私の人生何だったんだ』と言って、壁をかきむしる。みんなの上をのぼったり、もう大変な阿鼻叫喚なんです」
濵田嘉一さん(87)
「ターンターンと音がするわけです。すると何人かが燃えるんですよ」
地上に広がっていた惨劇。空襲を指揮した司令官の音声テープが残されていました。東京大空襲の作戦司令官による、なまなましい肉声。
「日本を侵攻した時に、日本人を皆殺しにしなければならなかった」
なぜアメリカは、市民を犠牲にする無差別爆撃を行ったのか。その謎を解く手がかりが司令官の肉声から明らかになりました。
私たちが向かったのは、アメリカ空軍士官学校。
厳重なセキュリティチェックを終えて、案内されたのは特別資料室。ここにアメリカ空軍に関する資料が保管されています。
今回、私たちは空軍の許可をえて、撮影が可能になりました。
箱いっぱいに詰めこまれたカセットテープに記録されていたのは、およそ250人にのぼる軍関係者らの肉声。戦後20年ほどたってから、歴史研究者がインタビューした際に録音したものです。
アメリカ空軍士官学校・ヘバート特別コレクション主任
「これが1970年に行われたカーチス・ルメイのインタビュー記録です」
声の主はカーチス・ルメイ少将。東京大空襲の作戦司令官です。日本への空爆を指揮する現場のトップで、就任したときは38歳。
「前任者がうまくいかなかったから、私は何かを期待されて任命されたとわかっていた」
その肉声から、東京大空襲にいたるアメリカ軍の内幕が見えてきました。
日本本土に本格的な空襲が始まったのは、1944年11月。当初は1万メートルを超える高度から、軍需工場などをピンポイントでねらっていました。
しかし、こうした空爆は気象条件が障害となり、ターゲットを正確に爆撃する事ができませんでした。ピンポイント爆撃は失敗とみなされ、前任者は更迭。そこにルメイが抜てきされたのです。
カーチス・ルメイ
「私は何かをしなければならなかった」
前任者の失敗をうけ、作戦の方針転換を迫られたルメイ。
カーチス・ルメイ
「日本に焼夷弾を使う事は常に検討されていた」
最終的にルメイが、検討を実行に移します。焼夷弾とは、油を詰めこみ、あたり一帯を焼き尽くす事を目的とした爆弾です。
なぜ、そんな焼夷弾攻撃を大勢の市民に対し行ったのか。その理由が軍トップの日記に記されていました。
「日本は工場が小さく分散しており、民家から近い」
「市民に被害を出さずに軍事施設を破壊するのは、事実上、不可能だ」
“町にある工場と、そばに住む人々を区別して空爆する事はできない”。こうして無差別爆撃への道を進んでいったのです。
実はアメリカ軍はそれまでにも焼夷弾攻撃を想定し、着々と準備をしていました。
アメリカ南部にあるマクスウェル空軍基地。ここに焼夷弾攻撃につながる資料が保管されています。
記者
「日本、焼夷弾攻撃データと書かれています」
そこに焼夷弾攻撃を計画立案した資料がありました。
マクスウェル空軍基地・アーカイビストのスピンク氏
「東京の『ゾーンワン』はまさに、ここです。米軍が最も破壊したかったエリアです」
赤く塗られたゾーンワンは、第一にねらうべきターゲットとされた場所。現在の墨田区、台東区、中央区、江東区を中心とする地域です。
そこは、町工場と燃えやすい木造家屋が隣り合う人口密集地でした。焼夷弾による攻撃は、無差別爆撃となることを意味しました。
この映像は、アメリカ軍による焼夷弾の燃焼実験を撮影したもの。日本の町を再現し、布団や障子、路地の道幅まで作りこんでいました。当時の日本と同じ消火設備を使った場合、消火が可能か、など緻密な実験を繰り返していたのです。
そして1945年、今からちょうど80年前の3月10日午前0時すぎ、大空襲が始まりました。およそ300機のB29から投下された焼夷弾は、32万発。
あの日、そこにいて奇跡的に生き延びた一人、濵田嘉一さん。焼夷弾のすさまじさが目に焼きついています。
濵田嘉一さん(87)
「シュルシュルって音がするんです、焼夷弾が。これコンクリでしょ。ターンターンと音がするわけです。すると何人かが燃えるんですよ。焼夷弾ですから、爆発する事はあまりないんですね。人間の体が粉々に散っちゃう事ではない。だいたい火がついて5、6歩走ってバタって倒れて終わりです」
濵田さんは母と祖母の3人で水を求め、庭園まで逃げてきました。
しかし、人があふれて中に入れず、死を覚悟した祖母の言葉が忘れられません。
濵田嘉一さん(87)
「おばあちゃんが『次はお前の番だよ』。その現場はここです。次はお前の番だから、お題目(お経)あげなさいと」
「もうその時は覚悟決まりました。俺もああなるんだ…」
偶然ハシゴをみつけて庭園に入ることができ、難を逃れました。
もう一人、あの夜を生き抜いた大久保房子さん、当時15歳。
大久保房子さん(94)
「もう雨あられと火の粉が飛んでいくんで、火の粉にやられて亡くなってるんですよ。体について衣料が燃えて、その場でもだえ死んでるんですね」
焼夷弾は人々を燃やし、工場、木造家屋、都市のすべてを焼き尽くしました。大久保さんは、その時の情景を鮮明に記憶しています。
大久保房子さん(94)
「焼夷弾っていうのは、油をまいて火を落とすんです。ですから、ブワーッて油がまかれて火を落とされたから、ボッと燃えるわけです。ですから1軒2軒の火災じゃないんです」
せまってくる炎を逃れて、母と二人で鉄筋コンクリートづくりの明治座に逃げこみます。
しかし…。
大久保房子さん(94)
「もう大変な阿鼻叫喚なんです。それを見て、これはもうだめだなと」
「私の上に一人二人と倒れ込んできたんです。死ぬんだと思いましたね。その時ですよ、こんなところで死ぬものかー、こんなところで死ぬものかー、(思いが)もくもくと出てくるんですよ」
「はらいのけて、30センチの所からはい出したんだから」
これは、東京大空襲を計画する様子を再現した映像です。
ルメイは、空軍トップにのぼりつめます。その後のベトナム戦争でも、アメリカ軍は無差別爆撃を進めました。
東京大空襲から22年後。ルメイが士官学校の学生に向けて、自身の戦争観を語る映像が残されていました。
カーチス・ルメイ
「若いインテリたちが『戦争は恐ろしい』『特に核戦争は恐ろしくて考えられない』『戦争は愚かなものだ』と非難する。この点については私も同意するが、私たちは解決策を見つける事ができなかった。人間はまだそこまで進歩していないのだろう」
大久保房子さん(94)
「私の人生なんだったんだーと言いながら死んでいったんですよ。だから、みんな生きたい生きたいと思って死んでるんです」
濵田嘉一さん(87)
「戦争というのは、その時代に生きていた人全体の問題です。たまたま流されて戦争だったからこうなったんじゃなくて。これから生きていく若い人たちは、いつでもそういう気持ちで人間というのは大事なんだと」
「自分の生き方を、戦争は嫌だと。絶対に敏感でいてほしい」
(3月10日『news every.』より)