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戦後80年…「疎開児童からの手紙」戦争が与えた影響【キキコミ】

2025年3月4日 10:27
戦後80年…「疎開児童からの手紙」戦争が与えた影響【キキコミ】
生活や仕事に関わるニュース。「今、起きていること」。当事者が抱える悩みや本音、キーパーソンが進める“新たな解決策”など。知ったら、私たちも何か行動したくなる?ような…情報を、櫻井翔キャスターが自ら「取材(聞き込み)」しつつ、お伝えします。(3月3日放送『news zero』より)

◇ ◇ ◇

戦後80年となる2025年、私たちは「いまを、戦前にさせない」をテーマに様々な特集をお伝えしています。

都内に住む、元小学校教師の飯塚義一さん101歳。

○櫻井
「すごいですね、これ全部…」

“心の支え”になったのが、この教え子からの手紙でした。

○元小学校教師
 飯塚 義一さん(101)
「うれしかったですね。いつまでも僕のことを忘れないでいてくれるうれしさがありました」

19歳で、小学校にあたる国民学校の先生になった飯塚さん。

1943年10月に、いまの東京・港区にある「青南国民学校」に赴任。4年生のクラスを担当することに。

○櫻井
「これは鉄棒の写真ですか?」

○元小学校教師
 飯塚 義一さん(101)
「これ全員です」

○櫻井
「こちらにいるのが先生ですか?」

○元小学校教師
 飯塚 義一さん(101)
「子供たちは、全員名前をフルネームで覚えていました」

○櫻井
「教師になられて、毎日どうでしたか?楽しかったですか?」

○元小学校教師
 飯塚 義一さん(101)
「日曜日がつまらないくらい、子供たちと一緒にいるときが楽しかったですね。本当に子供と一緒にいるときが幸せでした」

しかし1944年8月、ある転機が…。

アメリカ軍の空襲に備えるため、子供たちを集団疎開させることが決まったのです。

いまの調布市にあたる神代村で始まった疎開生活。

○元小学校教師
 飯塚 義一さん(101)
「一緒に寝て、同じ部屋で食事もして勉強して」

しかし、それも長くは続きませんでした。

1944年10月、戦況が悪化するなか飯塚さんは、陸軍予備士官学校に入ることになったのです。

そこからの8か月、子供たちからの手紙が絶えず届きました。

○元小学校教師
 飯塚 義一さん(101)
「(1日に)多いときは4通くらい来ました。兵隊が『手紙です』って持ってくると『飯塚先生、飯塚先生、飯塚先生』って僕のばかりで、みんなにうらやましがられました」

子供たちから、引き出しに入りきらなくなるほど、届いたという手紙。その数345通。

○篠倉正信さん(1944年11月27日着)
「きょうは算数をやりました。急に難しくなったような気がしましたが、うれしくてたまりませんでした」

○飯島善次郎さん(1944年11月12日着)
「お兄ちゃまお元気ですか。僕も元気で毎日を過ごしています」

また、大好きな先生を思い浮かべたイラストも。

むじゃきな日常をつづった手紙。しかし、そのなかには…。

○元小学校教師
 飯塚 義一さん(101)
「だんだんに空襲・戦争の話が多くなってきて」

戦争の影響を感じる内容も。

○林一美さん(1944年11月27日着)
「僕は早く大きくなって少年飛行兵になって、お国のために尽くします」

○飯島善次郎さん(1945年2月21日着)
「先生早く立派な兵隊さんになって、憎いB29を全部落としてしまって下さい」

3月10日の東京大空襲の様子をつづった手紙には…。

○渡部英彦さん(1945年3月17日着)
「火災は10日の晩になっても、一部分燃え続けていました」

○小川 充さん(1945年3月17日着)
「僕達は寮の窓から、延々と燃える東京を見ながら『きっと立派な軍人になりお国のためにご奉公をしようと』皆誓いました」

○櫻井
「手紙の内容が変わっていったことを先生はどう思いましたか?」

○元小学校教師
 飯塚 義一さん(101)
「子供たちが無事でいられるように、と思いました。自分もつらいけど子供たちはもっとつらいんだなと思いましたね」

ほかにも、当時の手紙には…。

○杉本 洋さん(1945年2月25日着)
「敵機が1機落ちていったのを見て、おどりあがって、喜んでしまいました」

○鈴木喜三郎さん(1945年4月9日着)
「ぼくたちは6年生になりました。もうあと5年間で僕達は特攻隊になれるのです」

敵が目の前で死んだかもしれない様子を喜び、また死と隣り合わせの特攻隊に“あこがれる”言葉が…。

手紙には、互いの命の感覚が”麻痺“していくような内容がつづられていました。

○櫻井
「子供たちも『特攻隊になります』という手紙もありましたけど、手紙を読んだときはどう感じましたか?」

○元小学校教師
 飯塚 義一さん(101)
「子供にこんなことを考えさせることは絶対にないようにしたい、と思いました」

飯塚先生の教え子の1人は、のちに東京大学の総長になった吉川弘之さんです。

吉川さんが、飯塚先生にあてたはじめての手紙では。

○吉川弘之さん(1944年12月8日着)
「エイ、ヤアと毎日元気のいい声で剣道やります。防空頭巾をかぶってやるので脱ぐと湯気が立ちます」

ただ、その3か月後には。

○吉川弘之さん(1945年3月1日着)
「僕達も早く大きくなって、米英撃滅に邁進したいと思います。子供でも今では頑張らなければいけませんね」

○櫻井
「どういった子供でしたか?」

○元小学校教師
 飯塚 義一さん(101)
「おとなしい、あまり目立たない子でした」

○櫻井
「そういった子が『米英撃滅』まで書くのは想像できますか?」

○元小学校教師
 飯塚 義一さん(101)
「こういう強いことを書いているのは、驚きました」

手紙の内容が変化していった理由について吉川さんは。

○飯塚さんの教え子の1人
 東京国際工科専門職大学 名誉学長
 吉川 弘之さん(91)
「戦争は勝つか負けるかしかない。その頃は、みんな勝たなきゃいけないと思っていました。勝たなければ家族がみんな殺されてしまう。子供なりに考えていました。
 そういう立場に立つと、友達の間では“弱虫の吉川”だけど、自分の心の中に捨てられないものが芽生えてきた気がします。
 人類が最後にほろびる道なんです、戦争というのは、間違いなく。それをもう少し若い人にも考えてほしいです」

戦後、教師に復帰し40年教育にあたった飯塚さん。

○櫻井
「戦争を知る先生として、今の子供たちに伝えたいことは何ですか?」

○元小学校教師
 飯塚 義一さん(101)
「101歳になって、教壇に立つことはないですが、もし先生になって、子供たちに教えることがあったら戦争は絶対にしてはならないことだと、そういう教育をしたいと思います」

(3月3日放送『news zero』より)

最終更新日:2025年3月4日 10:27