真珠湾83年“出撃の地”択捉島…戦争で奪われた故郷【キキコミ】
◇ ◇ ◇
○櫻井
「こんにちは。よろしくお願いします」
向田典子さん88歳。
かつて、北海道の北東部にある択捉島に住んでいました。
○択捉島に住んでいた 向田 典子さん(88)
「これは鯨」
○櫻井
「捕鯨。こんな大きいんですね」
捕鯨など水産業が盛んだった港町。
そこで目撃した、ある光景が今も目に焼き付いていました。
○択捉島に住んでいた 向田 典子さん(88)
「すごくたくさん船入っているなって。湾の中にびっしり入って」
○櫻井
「それまで、そういうことはあったんですか?」
○択捉島に住んでいた 向田 典子さん(88)
「ないです」
○櫻井
「はじめて?」
○択捉島に住んでいた 向田 典子さん(88)
「はじめて」
択捉島の単冠湾に軍艦およそ30隻が集結。数日後には、一斉に出撃したといいます。
○択捉島に住んでいた 向田 典子さん(88)
「出て行く時も、いかりを揚げる音がすごかったです。ゴーっていう音が」
向かった先はアメリカ・ハワイ。アメリカ軍の拠点を奇襲した「真珠湾攻撃」です。
実はこのときの攻撃に参加した人物を、私は取材していました。
元航空兵の吉岡政光さんです。
○真珠湾攻撃に参加した元航空兵 吉岡 政光さん(当時103)
「択捉島の単冠湾に停泊しているときに艦隊司令官の訓示があって、はじめて、そこで『ハワイを攻撃する』と。『12月8日を期して開戦せんとする。相手はアメリカだ』と」
兵士たちも、直前まで知らなかったという極秘作戦。
天候が荒れやすい半面、敵機に見つかりにくい北側から進軍することが計画され、その出発地点が択捉島だったのです。
向田さんの父・尚三さんは、軍艦が集結した街の郵便局長でした。
その自宅に旧日本軍が突然やってきて、情報が漏れないよう「本土との通信を遮断」することを命じたといいます。
○櫻井
「ある日突然軍の方が来て というのは、(家の中に)緊張が走りましたか?」
○択捉島に住んでいた 向田 典子さん(88)
「ものすごく緊張しました。家の中が一変しました。父も(軍に)おさえられて、私たちも小さい子供だけど、『騒いじゃいけない』と言われて(部屋に)1つにまとめられて」
○櫻井
「外に出るなと?」
○択捉島に住んでいた 向田 典子さん(88)
「島民みんな『外に出てはだめ』と言われました。『見てはだめ』と。でも隠れながら見て。船の名前もみんな隠してありました」
真珠湾攻撃では大きな戦果を上げたものの、戦局は次第に悪化し、真珠湾攻撃から3年8か月後、日本は降伏を発表しました。
しかしその直後、択捉島にソ連軍が侵攻。家族は故郷を奪われたのです。
向田さんが、自宅があった場所を訪れることができたのは終戦から68年後のことでした。
○択捉島に住んでいた 向田 典子さん(88)
「『私たちの家はこの辺だと思う』って兄が言っていました」
○櫻井
「何もないですね」
○択捉島に住んでいた 向田 典子さん(88)
「あまりにも変貌していたので、がっくりきて」
○櫻井
「少しは面影を感じられると思いました?」
○択捉島に住んでいた 向田 典子さん(88)
「何かもっと残っていると思ったけど、何もなかったです」
その故郷・択捉島も、現在は、ロシアのウクライナ侵攻をうけて島に入ることすらできず、慰霊式は、海の上から行われています。
返還をめぐるロシアとの交渉も、膠着しています。
○櫻井
「古里を追われるという意味では世界各地、たとえばウクライナでも同じようなことが起きていますが、そういう現状をどう見ていますか?」
○択捉島に住んでいた 向田 典子さん(88)
「あんなこと、なんでしなきゃいけないのかなと思います。私たちだって、ウクライナのことが解決すればなんとかなるんじゃないかなって思いももっていますし、北方領土が少しでも往来できるようにならないか、と思いながらみんな(返還の)運動しています」
故郷を奪われてから、まもなく80年。
○櫻井
「80年たって、戦争への思いはいかがですか?」
○択捉島に住んでいた 向田 典子さん(88)
「日本では二度と起こってほしくないなと思います。いやです」
(12月9日放送『news zero』より)