戦後80年 広島・長崎で二重被爆した被爆者 「離れたい…」北海道へ渡った被爆者も それぞれの思い【NEVER AGAIN・つなぐヒロシマ】
広島からおよそ1000キロ離れた青森県青森市に住む、被爆者の1人・福井絹代さん(94)は、亡き夫のふるさとの青森で暮らして、70年になります。福井さんは14歳の時、広島と長崎で二度被爆しました。左耳が聞こえなくなるなど、原爆による後遺症をかかえています。
■福井絹代さん
「何で二度も、私こういう怖い思いしなきゃなんないんだろうって必死でしたね。」
福井さんは時折、地元の若者らに被爆体験を語っています。
■福井絹代さん
「バーっと光ってものすごい光で、見た瞬間にぺっちゃんこ。私が(家の)下敷きになったのを、弟が引っ張り出してくれて、助かったんですけどね。」
父親の仕事の都合で、地元の長崎から広島に移り住んできました。その後、父は出征。残された2歳下の弟とともに被爆しました。
■福井絹代さん
「想像つかないでしょ、あなたがた。人と馬がね、道幅いっぱいに倒れてるの踏んで歩いたなんてね。」
弟の国義さんが残した被爆の体験記は、100枚を超えます。
■福井絹代さん
「この人、よく勇気出して描いたなと思いましたね。普通では、恐ろしいと思ったら、描けるもんじゃないですよね。」
■体験記より(一部抜粋)
「雷鳴のような音がして、数秒後に、晴天だったのが急に夜のように暗くなり、グワ…と物凄い熱風が吹き付けてきた。とうとう俺ん家に爆弾が落ちたかと思う間もなく、体がぶあっと浮き上った。」
爆心地から1.8キロの千田町の自宅で被爆した2人は、広島市内を必死で逃げ回りました。
■体験記より(一部抜粋)
「この黒焦げの死体を越えなければ、先に進めない。もう気が狂いそうなので、姉の手を引き、がくがくする足で、死体をまたいで先へと急ぐ。髪の毛が逆立ちするくらいの恐ろしさだった。」
■福井絹代さん
「とにかく悲惨だったですよ。たまに夢見て、足の裏の感触がね…」
翌日、2人は知人を頼って船で似島へ渡ります。そこには、重傷の兵士たちが運ばれていました。
■体験記より(一部抜粋)
「兵舎の中に入ると、ギョッとして立ちすくんでしまった。竹のワンと竹のサジを渡され、火傷の兵隊に重湯を飲ませてやれと言われたが…」
■福井絹代さん
「もうどこが鼻やら口やら分からないからっていうので、弟泣き出しちゃったんですよ。私は、仕方なしに割り箸と牛乳瓶もたされて、ウジを一匹ずつとるとね、顔にわいたウジを。あれはいまだにもう嫌ですね。だって、亡くなる前からウジわいてくるんですよ。」
2人は、生まれ故郷の長崎を目指します。列車が長崎駅に着く手前で、2発目の原爆が落ちました。
■福井絹代さん
「線路の両脇死体。みんなもう傷だらけで、目つぶって「ごめんなさい、ごめんなさい」って言ってね。私ら2人、どうしてこんな目にあわなきゃなんないって。広島であって、やっと長崎帰ってきたら、また長崎もって…」
戦後、被爆地を離れて暮らした福井さん。それでも、苦しみは終わりませんでした。
■福井絹代さん
「心ない人がね、『どこの生まれ』って言って、長崎って言ったら『ああ、ピカドンだ』なんてね。蔑むような目つきで言われたときは、悲しかったですね。」
2度の被爆をともに生き延びた弟の国義さんは、2017年に84歳で亡くなりました。
■福井絹代さん
「本当に私1人だったら、必死で逃げ回るってことなかったと思う。手離すとね、もうバラバラになっちゃうからと思ってね、あの握りしめた感触って、いまだに思い出しますね。」
海を越えて、さらに北を目指した被爆者がいました。北海道札幌市の郊外に「平和通」という町があります。
「ノーモア・ヒバクシャ会館」は戦後、北海道に渡った被爆者たちが作りました。日本被団協に加盟する「北海道被爆者協会」が運営しています。広島・長崎に次ぐ3つ目の「原爆資料館」の館内には、被爆者から寄贈された遺品やパネルなど、およそ150点が展示されています。
■北海道被爆者協会事務局次長 北明邦雄さん
「汽車の窓からも見えるようにということがあって。それで一番上に、原爆ドームを模したああいうデザインをつけたんですね。」
なぜ被爆者は、遠く離れた北海道に渡ったのでしょうか。
■被爆者(手記より一部抜粋)
「自分の秘密を守ろうとして、北海道まで来てしまいました。」
「原爆の投下などなかったら、北海道に来ることもなかったでしょう。」
北海道にはかつて、1000人を超える被爆者がいたといわれています。それぞれの事情で移り住んだ被爆者たちの心の奥には、共通する思いが垣間見えました。
■北海道被爆者協会事務局次長 北明邦雄さん
「広島長崎から遠く離れたい。もしかすれば、忘れたい。広島で被爆したからどうだとか、あれこれ言われたくないというような思いが、北海道に被爆者を多くしている一番底流のところにあるんじゃないかと。」
そんな被爆者たちが、心の拠り所として作ったのが「ノーモア・ヒバクシャ会館」でした。賛同する市民からの寄付も集まりました。しかし北海道被爆者協会は、高齢化を理由に3月末で解散することを決めました。この会館は、地元の学校法人に譲渡されます。4月からは、若い世代などが新たな組織をたち上げ、活動を引き継ぐ予定です。
■北海道被爆者協会事務局次長 北明邦雄さん
「区切りがきたら、直接の体験世代が語れなくなる、動けなくなる。これは致し方のないことですけども、核兵器という非人道的な兵器を使うということは、どんな事情があっても二度と許されない。それは、被爆者だけの問題ではないですよね。」
今も絶えない戦争。「核なき世界」は遠のいています。核兵器の恐ろしさを二度体験した福井さんに、今、世界中で戦争が起きていることについて、話を聞きました。
■福井絹代さん
「見るも嫌、聞くも嫌。恐ろしいもの、戦争は。自分の身に置き換えるとね、この子どもたちが、どういう思いで逃げ惑っているかと思うとね。新聞出ても読まない。子どもかわいそうだもの…」
被爆80年の2025年、福井さんは、故郷の長崎を訪問したいと話しています。一方、広島について聞くと、「広島で一番怖い思いをしたので、あまり行きたくない」と語りました。
福井さんは長年、家族にも詳細な体験を語っていませんでした。今も積極的に語ってはいませんが、少しずつ話し始めているそうです。あの日の記憶を胸に生きてきた被爆者たちの願いに、今、耳を傾けなければなりません。