戦後80年「苦しみは死ぬまで…」原爆被爆者の空白の10年とその後を後世に 被爆者・清水弘士さん【NEVER AGAIN・つなぐヒロシマ】
原爆投下後に、被爆者が何の支援も受けられず苦しんだ期間「空白の10年」と、その後も続く苦しみを伝える一人の被爆者を取材しました。
被爆者の清水弘士さんは、2024年に心臓と肺の病で倒れて以来、外出時の酸素吸入器が手放せません。
■清水弘士さん
「血圧が高いのか、貧血なのかよくわからないんだけど、ふわーふわーっとするんです。」
それでも、週に1度続けていることがあります。修学旅行生などに向けた、被爆体験の証言です。
■清水弘士さん
「じっとしとる時は、(吸入器を)外していいってことになっとるんです。」
3歳の時、爆心地から1.6キロの自宅で被爆しました。母が抱きかかえてくれたおかげで、ケガはありませんでした。しかし、爆心地の近くで働いていた父は大けがをし、2か月後に亡くなりました。
■清水弘士さん
「私を連れて家の中に入った瞬間が、8時15分。母は、ピカッという光を感じました。」
幼かった清水さんにとって、8月6日の記憶は断片的です。しかし、その後の苦しみは、はっきりと刻まれています。
■清水弘士さん
「広島と長崎の被爆者は、一切誰からも助けはありませんでした。ほったらかしにされたんですね。『空白の10年』というふうに、その期間のことを呼んでおります。」
戦後、日本を占領統治したGHQが「プレスコード」で報道を統制し、原爆の実態は覆い隠されます。被爆者は、後遺症や風評による苦しみの中、支援を受けられませんでした。
■清水弘士さん
「原爆のことを話したら、沖縄送りになるよって言われていたんです。沖縄は米軍の軍政下でしたから、重労働させられる(という噂)。」
清水さんにとっての『空白の10年』の記憶は、広島駅にあります。戦後に広がった闇市。物資が不足し、多くの市民が生活必需品などを求めました。原爆で住む家と大黒柱を失った清水さん一家も、ここにたどり着きます。
■清水弘士さん
「2畳よりも狭いくらいの屋台で、昼間はそこに商品を並べて、私をそばに置いて母がものを売って、兄が学校から帰ってきて、夜は3人でそこで商品を床下に移して、布団を敷いて、抱き合って寝るという。そういう生活が1年近く。」
苦しい生活に追い打ちをかけたのが、被爆の後遺症とみられる症状でした。清水さんは、被爆してからおよそ10年間、鼻血や下痢、倦怠感などの症状に苦しみました。体育の授業はいつも見学で、「生まれ変わったら元気になりたい」と願い続けていました。
■清水弘士さん
「朝起きてみると、枕とか首筋が血だらけになっているんです。大量の鼻血を出しているんですね。最初は医者になんかかかれませんからね、お金もないし。」
しかし、それが原爆の後遺症とみられる症状だと知ったのは、大人になってからのことだったと言います。援護のない被爆者のために立ち上がったのは、被爆者自身でした。日本被団協の発足です。地道な活動により、被爆者健康手帳の交付などにつながりました。清水さんもかつて、役員を務めました。
■清水弘士さん
「何年も何年も(苦しみが)続くわけですよね。戦争の結果ですよ、これは。」
2025年、83歳になる清水さん。1日に十数種類の薬を服用しています。趣味の登山も、できなくなりました。
■清水弘士さん
「明日、病院なんで。薬は最後の薬。これ朝がね、11種類かな…11、12、13」
いつも隣に寄り添うのは、妻の惠子さんです。広島市内に2人で暮らしています。出会ったのは、大学生のころ。清水さんがひとつ上の先輩でした。
■妻・惠子さん
「音楽も、両方とも好きだったの。」
■清水弘士さん
「当時は、ジャズ音楽がすごく流行っていたんです。」
惠子さんも被爆者です。
■妻・惠子さん
「原爆の時の話しても、本当に鼻血しょっちゅう出てたよねとか、そういう話はよくしていました。」
惠子さんと結ばれた後も、清水さんの頭から消えない記憶がありました。それは、学生時代に病院で見た光景です。
■清水弘士さん
「待合室に、うわーっとガラス瓶が置いてあるんです。未熟児、奇形児、子どもたちがずらーっとホルマリン漬けで並べてあるんです。子どもだけはやっぱりね、原爆の被害は自分だけにとどめないといけないな、という気がしたもんですからね。子どもなしの生活にしましょうねっていう。」
■妻・惠子さん
「いいのかなこれでって、何度も自問自答するっていうのがありましたね。やっぱり肉親がたくさんいるのは、心強いことだから寂しいだろうなと。想像したとおり寂しいなっていうのはありますね。」
■清水弘士さん
「こっち(妻)の体が弱いからね。絶対私がこっち(妻)のおしめの心配するくらいに介護するよっていう立場だったんだけど。」
■妻・惠子さん
「2人とも明るい老後で。でも、今は笑えてても、涙もいっぱい出ましたね。」
清水さんは今、自らが体験した『空白の10年』を伝承者に託そうとしています。研修には、18人が参加しました。
■清水さんの伝承者を目指す 牧裕子さん
「清水さんの話は、私の知らないことがすごく多くて。教科書で習ったくらいのことしか、原爆を私知らなかったんですよ。」
■清水さんの伝承者を目指す 千野起暉さん
「戦争は、平和条約が結ばれた瞬間に終わるものじゃなくて、そのあとも苦しんでいる人、そういう人がいたんだということを、伝えていく必要があるんじゃないかなと思いました。」
■清水弘士さん
「被爆者の苦しみは、当日の地獄を体験したことだけじゃなくて、そのことによって生み出されたその後の地獄ですね。死ぬまで続くわけですからね。あとどれくらい命があるか分からんけど、最大のエネルギーを出して、次につないでいく努力をしないと。やっぱりちょっと動くと息切れしてね、ハーハーして。」
被爆者が置き去りにされた「空白の10年」、そして、その後も背負った苦しみを、命ある限り、伝え続けます。
【広島テレビ報道部・小田成実記者】被爆後も苦しみを背負い続ける清水弘士さんの人生
戦時中は、空襲に備えて家の床下に物を蓄えることが推奨されていたそうです。清水さんの家では、大きな壺に入れた塩を保管していました。母のキクエさんは、被爆した後、自宅の焼け跡からその壺を掘り起こし、中に入っていた塩を売って生活費を稼ぎ、女手一つで2人の子どもを必死に育てたそうです。キクエさんは、被爆した時40代。夫を失い、再婚の話もあったといいますが、「とにかく子どもを育てることが一番嬉しくて、成長を見るのが楽しくて、再婚の考えは全くなかった」と話していたそうです。そんなキクエさんに育てられた清水さんは「原爆の被害は自分だけにとどめないといけない」との思いで、子どもを持たない人生を選びました。被爆の苦しみは、空白の10年はもちろん、その後もずっと背負い続けるものです。二度と同じ過ちが起こってはいけないと強く感じました。