戦後80年 B29が飛び立った「玉砕の島」テニアン島 生き残った90歳の記憶【NEVER AGAIN・つなぐヒロシマ】
80年前、B29エノラゲイが広島へ向かうために原爆を搭載して飛び立ったテニアン島には、1万5千人の日本人移民が暮らしていました。太平洋戦争の激戦地となり、多くの犠牲者を出したテニアン島での戦争を生き抜いた、沖縄で暮らす女性を取材しました。
旧正月が明けた1月30日。沖縄では、仕事始めの儀礼として「ハチウクシー」という行事が行われます。新垣光子(あらがき・みつこ)さんは、毎年「ハチウクシー」で琉球舞踊を披露しています。
光子さんは、沖縄県中城村(なかぐすくそん)で、6歳の雄ネコ・タマと暮らしています。光子さんの生まれ故郷は、沖縄のはるか南にある旧南洋群島に浮かぶ小さな島、テニアン島です。かつて日本人が暮らしていました。
テニアン島にあった日本人が通う小学校の写真を見ながら、光子さんにテニアン島での日々を聞かせてもらいました。
■新垣光子さん
「テニアンに生まれて。マルポ国民学校に入って。だいたい(同級生が)50人くらいいるなぁ。」
当時、南洋群島は日本が統治していました。テニアン島には、農地を求めておよそ1万5千人の日本人が移住、その大半は沖縄県民でした。
太平洋戦争がはじまり、アメリカ軍はテニアン島を攻撃します。アメリカ軍にとってテニアン島は、爆撃機・B29が日本本土へ空襲をおこなうための重要な拠点でした。この戦いに、住民たちも巻き込まれました。光子さんの家族6人も、追い詰められ集団自決を覚悟します。
■新垣光子さん
「照明弾が夜あがったら、伏せたり。そこにいっぱい人が死んでいるんですよね。そのまま死体をまたいで。うちのおばあさんが「見たでしょう。あんなにして倒れて死んでいる。人に踏まれて。どうせ自分たちも死ぬんだから、みんなで身投げ、海に死にに行こう」と言ったんですよね。」
■新垣光子さん
「もう子どもだから、親の言うことをついてはいったんだけど、崖を見たら人がいっぱい浮いているんですよ、海に。これ見て「いや、私死なない」と言って山の奥に逃げたら、うちの家族も私の名前を呼んで、私についてきて6人家族みんな元気でした。これだけ、うちのおばあさんがいつも言っていたの。「あんたのおかげで、海に落ちないで助かったね。みっちゃん、ありがとうね」って。海にポンポン人が浮いてるの見たら、怖くて…」
民間人と軍人あわせて、およそ1万5000人が亡くなりました。光子さんの同級生も、半数以上が犠牲になったそうです。光子さんと家族は一命を取り留め、捕虜となりました。収容所で過ごす日々。一人の男性から聞いた話が忘れられません。
■新垣光子さん
「漁師、いつも海に行くおじさんがいたんですよ。男の子4人と奥さんと5人崖に向かって投げて、自分も海に落ちたけど漁師だから泳ぎが上手だから、浮き上がってきて。3回目には死ねないで捕虜になった。「敵が殺していない。自分が(家族を)殺したんだよ」と、おじさんはいつも泣いていました。」
テニアン島に基地を構えたアメリカ軍は、日本本土への空襲をしかけます。そして、原爆を搭載して広島・長崎に向かったのです。
■新垣光子さん
「B29が飛んでいるのは(収容所から)見たんだけど、ただ戦争に行くとしか思っていないんですよ。10年前にテニアンに行ってはじめて、コンクリートの穴があって、そこから原爆をいれて、飛行機に載せて原爆を積んで広島に向かったんだよって聞いたんです。」
■広島テレビ 樫原憲正記者
「ご自身が生まれたふるさとテニアンから、広島・長崎に原爆。どのように思われたかなと。」
■新垣光子さん
「原爆を落とさないといけなかったのかな。いっぱい人が亡くなって。「テニアンはよかったね」と言いました。(テニアンは)敵の玉にあたって亡くなった人がいるんだけど、(テニアンでは島民)全体が亡くなっていないから。向こう(広島・長崎)と比べて「テニアンはよかったね」と友達同士と話しました。」
中城村久場崎(くばさき)には終戦後、テニアン島から沖縄に引き揚げてきた人たちが上陸しました。光子さんもその一人です。
■新垣光子さん
「沖縄ってところはこんなところね。寒いと知らないから。3月だから寒かったんですよ。沖縄寒いから、また南洋に帰ろうって言った。」
■新垣光子さん
「戦争のことを考えると、亡くなった人たちはかわいそうだな。生きていれば、私より元気だったかなと思ったりするんですけど。自分は恵まれて、この歳まで(数えで)91歳まで生きています。」
はるか南の島、テニアンで生まれた新垣光子さん。つらい記憶を抱えながらも、ふるさとへの思いは募る戦後80年です。