「先生早く立派な兵隊さんになって…」疎開児童から届いた345通の手紙

「先生みたいにお国のために働く軍人になります」。太平洋戦争の末期、親元を離れて集団疎開をしていた小学5年生が担任の先生に書いた手紙です。教え子から届いた手紙は345通。戦争が子供たちに与えた変化とは―。(報道局調査報道班 菊地庸太)
都内に家族と暮らす元小学校教師の飯塚義一さん。大正13年生まれの101歳です。小さな頃からスポーツ万能で、体操の空中回転やバック転が得意だったといいます。
飯塚義一さん
「スポーツを子供に教えたくて先生になりました。日曜日がつまらなかったんです。子供たちと遊んだり体育を教えたりするのが楽しくてしょうがなかった」
憧れの教師になるため師範学校に入学した飯塚さん。太平洋戦争の最中、1943年に思わぬ形で卒業を迎えます。
飯塚義一さん
「本当は3年間、20歳で卒業のはずが軍部の要求で半年繰り上がって19歳で先生になった」
東京・赤坂区(現港区)の青南国民学校に赴任した飯塚さん。今の小学校にあたる学校で4年生の男子クラスを担任することに。
飯塚義一さん
「かわいかったですね。大好きでした。初めて担任した子供たちなので。今でも全員、名前をフルネームで覚えています。先生が19歳で子供たちが10歳。9つしか違わなかった」
兄弟のように過ごした子供たちとの学校生活。ただ、それも長くは続きませんでした。
1944年8月、米軍の空襲に備えるため、子供たちを集団疎開させることが決まったのです。青南国民学校では、小学3年生から6年生までの約400人が現在の東京・調布市にあたる神代村へ集団疎開しました。「東京から一番近い疎開先」と言われ、飯塚さんと子供たちは電車に乗って赤坂区から神代村まで移動しました。
飯塚義一さん
「仙川駅で降りてびっくりした。村というから田んぼや畑があって農家がぽつんぽつんとある所だと思っていたけど、両側にずっと商店街があって町みたいなもんだなと」
神代村にある学校の教室を使って始まった疎開生活。
飯塚義一さん
「寝る、勉強する、生活する。全部をその部屋でやって。先生もそこで寝て、勉強も教えて。体育館もないので芝生のちょこっとした校庭で相撲をとったり、駆けっこしたり、組み体操をして一緒に遊びました」
子供たちとの疎開生活が始まって1か月半。戦況が悪化する中、1944年10月に飯塚さんは群馬県の前橋陸軍予備士官学校へ入学することになりました。教え子たちとの別れの時。
飯塚義一さん
「子供たちが仙川駅の土手の所に日の丸の旗を持って見送りにきてくれた。あの時の光景が今も目に焼き付いています。うれしかったですけど、もう再び教壇に立つことはないと思って、自分自身は覚悟はできていました」
9か月に渡った予備士官学校での過酷な訓練の日々。
飯塚義一さん
「零下14度の中で毎日毎日、馬の手入れをするのが一番つらかった。それから大砲を運ぶ時に分解して1人で担いで山を登るのが重くてつらかった」
そうした中、疎開している子供たちから毎日のように手紙が届くようになります。
飯塚義一さん
「1日に多い時は4通くらいくる。兵隊が『手紙です』と持ってくると『飯塚先生、飯塚先生、飯塚先生』って僕のばかりで、みんなに羨ましがられました」
引き出しに入りきらなくなるほど届いたという子供たちからの手紙。その数は8か月間で345通に達し、飯塚さんの大きな心の支えになったといいます。
■篠倉正信さんの手紙(1944年11月27日着)
「今日は算数をやりました。急に難しくなったような気がしましたがうれしくてたまりませんでした」
成績優秀でリーダーシップがあった篠倉正信さん。飯塚先生のクラスでは常に級長を任されていました。
■飯島善次郎さんの手紙(1944年11月12日着)
「お兄ちゃまお元気ですか。僕も元気で毎日を過ごしています」
飯塚先生を兄のように慕っていた飯島善次郎さん。飯塚先生が鉄棒をするイラストを描いています。時には自分の写真を同封し「戦場に一緒に持って行ってほしい」と頼むこともあったといいます。
■手紙の内容に変化が…
届き始めた当初は疎開生活のことや友達の話題が多かったという子供たちからの手紙。しかし、戦況の悪化とともにある変化が。
飯塚義一さん
「だんだんに空襲や戦争の話が多くなってきて」
戦争の影響を感じる内容も。
「僕は早く大きくなって少年飛行兵になってお国のために尽くします」
「僕たちも早く大きくなって米英撃滅に邁進したいと思います。子供でも今では頑張らなければいけませんね」
後に東京大学総長となる吉川弘之さん。弱虫で争い事が嫌いな子供だったといいます。
「先生早く立派な兵隊さんになって憎いB29を全部落としてしまって下さい」
飯島善次郎さんの描いたイラスト。飯塚先生が鉄棒をしている様子を描いたものから、3か月後には戦闘機が空中戦で激突する様子に変わっていました。
1945年3月10日の東京大空襲の様子をつづった手紙には…。
「火災は10日の晩になっても一部分燃え続けていました」
疎開先から見る東京の空が赤く染まっている様子が。
「僕達は寮の窓から延々と燃える東京を見ながらきっと立派な軍人になり御国のためにご奉公をしようとみんな誓いました」
東京大空襲の直後に書かれた子供たちの手紙。そのほとんどが国による検閲を受けていました。一方、命を軽くみるような内容の手紙も増えていきました。
「敵機が1機落ちていったのを見ておどりあがってよろこんでしまいました」
「僕たちは6年生になりました。もうあと5年間で僕たちは特攻隊になれるのです」
敵が目の前で死んだかもしれない様子を喜び、そして自らは死と隣り合わせの特攻隊に“あこがれる”言葉が…。手紙には互いの命の感覚が麻痺していくような内容がつづられていました。
「特攻隊になれる」と手紙に書いた子供たち。
飯塚義一さん
「子供たちにこんなことを考えさせることは絶対にないようにしたいと思いました」
終戦後、教職に戻った飯塚さん。40年に渡り子供たちと向き合ってきました。
飯塚義一さん
「101歳になって教壇に立つことはもうない。もし先生になって、子供たちに教えることがあったら、戦争は絶対にしてはならないことだと、そういう教育をしたいと思います」
【お知らせ】
「疎開児童からの手紙」は飯塚義一さんの寄贈により現在は調布市郷土博物館が所蔵。
手紙の一部を常設展示しています。入館無料。月曜休館。