支える家族が、生き方を教わっていた サリンの後遺症“さっちゃん”との時間 地下鉄サリン事件30年

さっちゃんは、強い女性だった。地下鉄サリン事件で一命をとりとめたが、言語障害と全身マヒの重い後遺症が残った。闘病生活は25年に及んだ。それでも、藤井フミヤさんの曲がかかると「踊る!」と声をあげた。発生から30年、事件への憎しみとともに家族が思い出すのは、さっちゃんの笑顔だった。
地下鉄サリン事件の被害者、浅川幸子さんの兄・浅川一雄さん。娘の祐圭(ゆうか)さんとともに、長年手を付けられなかった幸子さんの遺品整理を始めていた。
中学校の卒業証書、ネックレス、小さい頃からの写真。事件前まで幸子さんが書き続けていた日記もあった。「やっぱり日記帳っていうのは読めない。なので、僕もどうしようかなと思いつつ…」と、悩む一雄さん。
1995年3月20日の朝、31歳だった浅川幸子さんは、勤務先の研修に向かう途中、サリン事件に巻き込まれた。一命はとりとめたものの、言語障害と全身マヒの重い後遺症が残った。
■医師が「ひどい状況なので…」
一雄さんは、その日のことを一生忘れない。
救命医療センターの一番奥にある病室。夕方になってようやく会うことができた幸子さんの体はビクンビクンとけいれんを起こし、口からは時々泡が出ていた。体にはたくさんの機器がつながれていた。
「大丈夫?」と体に触れようとしたが、看護師から「ひどい状態なので、触らないでください!」。毒物の中毒で、いつ亡くなってもおかしくない状況だと医師がいう。一雄さんは、病院で一夜を明かした。
なぜ妹がこんな目に遭わなければいけないのか。どうして日常が一変してしまったのか。どこに怒りをぶつけていいのか。すべてが、分からなかった。
事件の翌日から、一雄さんは会社のメモ帳に日記をつけ始めた。幸子さんが回復したら、「こんなことがあったんだよ」と伝えたかったからだ。
しかし、幸子さんは、立ち上がることも、自由に会話することもできなくなった。2003年からは、一雄さんの自宅で療養を続けた。しかし、症状は次第に悪化していった。
事件当時、姪の祐圭さんは2歳だった。彼女の目に、重い後遺症を抱えた幸子さんの姿は、どのように映っていたのか──。
祐圭さん
「物心ついた時には車いすだった。車いすに乗っているのがさっちゃん」。
叔母の幸子さんのことを“さっちゃん”と呼ぶ祐圭さん。子どもの頃、みんなで行ったディズニーシー。夜のショーを見て、二人で“きれいだね”と話した。
家ではよく、幸子さんが好きな藤井フミヤさんの曲がかかっていた。ずっと聞いているうちに覚えて、よく一緒に歌いながらケーキを作って食べた。「おばさんが家にいて、“ケーキ作ったよ、食べる?”みたいなことしかしていないんで。大変だった記憶はないですね」
■オウムへの憎しみと…「笑っている姿も知っている」
幸子さんは、事件のことを、オウム真理教のことを「憎い」と口にしていた。ことあるごとに体を暴れさせ、「オウム、バカ」と振り絞って伝えた。
ただ、事件当時の幸子さんと同じくらいの年齢になった祐圭さんは今、「もちろん事件に対して、オウムに対して、腹が立っていたし憎いとさっちゃんも言っていた。そういう感情があるのは知っていた」「(幸子さんが)楽しそうに笑っている姿も知っている。そう考えたら、すごくパワーのある、強い女性なんだなって」とも思うようになった。
浅川一雄さん
「事件の対応の仕方や、家族のあり方だとか、一生懸命生きるということは、祐圭にも伝わっていると思う。いろんな生き方を教えてくれたというのかな」
幸子さんを支えるはずだった家族が、いつしか、生き方を教わっていた。
いま、一雄さんの頭の中には、いろんな思いがめぐっている。
単語しか話せないはずの幸子さんが、一雄さんと妻に一度だけ口にした「迷惑かけてごめん」という言葉。そんな気持ちにさせてしまっていたのか。とてもショックだったという。
それでも「幸子の笑顔が見られた。後悔があるかもしれないけど、よかったこともある」と一雄さんは信じている。事件を憎んでいるだけだと、前に進めない。やりきれない。
穏やかな日常が、事件で一変してしまった家族。地下鉄サリン事件からの30年は、強く生きた幸子さんと、ともに歩んだ時間でもあった。