戦艦「大和」沈没から77年 呉市で追悼式営まれる
4月7日は、戦艦「大和」が沈んでから77年となります。乗員3300人余りのうち、生き残ったのは1割以下でした。その「大和」が進水した呉市で、追悼式が営まれました。
戦艦「大和」の慰霊碑を前に営まれた追悼式には、参列した220人の中に、元・乗組員の姿はなく、遺族の老いも進みます。いま、乗組員で生存するのは3人です。
乗船していた父親をなくした女性は。
父が乗組員「母がいま103歳で今回来られなかったが、こうやって元気で頑張っているよという思いを報告しながら」
太平洋戦争末期の1945年4月。敗色濃厚となった日本軍は、不沈戦艦と呼ばれた「大和」を、沖縄への特攻に向かわせます。しかし出航から程なくして、アメリカ軍の猛攻を受け、3000人余りの乗組員と共に沈没します。
追悼式を前に花をたむける1人の男性、柳井敏弘さんの父親は、乗組員でした。
父が大和の乗組員・柳井敏弘さん「父と一緒にきょうは手を合わせた」
父親の衆造さんは、18歳で海軍に入隊。他の戦艦の乗組員などを経て、「大和」に乗船します。そして終戦の1年前に将校として陸上勤務となり、沖縄に向かうことはありませんでした。
柳井敏弘さん「大和にあのまま乗り続けて沖縄戦線に出ていたら、仲間と一緒に海の中に沈んでいただろうと(話していた)」
生還の望みのない特攻作戦。父・衆造さんは、「大和」に乗り込む仲間のことを想い、涙したと言います。
柳井敏弘さん「親しかった仲間たちが、沖縄の特攻作戦に行くと聞いて、自分も無念だったと」
84歳でなくなった父親の思いを胸に、いまは呉市倉橋町でボランティアガイドとして活動。戦争の悲惨さを語り継いでいます。
柳井敏弘さん「戦争で犠牲になった方たち、これを絶対に私たちは忘れてはいけないと、昔そういうことがあって、現在幸せな生活をやっていることを、子どもたちにも伝えていきたい」
歳月に容赦はなく、生還した乗組員276人のうち、生存しているのは3人。歳月と共に薄れゆく記憶と際限なく繰り返される戦争を前に、「大和」が教えてくれる教訓を忘れてはならない。それが遺族らの77年目の誓いです。