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皇室と空の旅 昭和天皇が見た「オーロラ」

2020年10月20日 16:30
皇室と空の旅 昭和天皇が見た「オーロラ」

長い歴史の中で飛行機に初めて乗った天皇は昭和天皇でした。1954(昭和29)年8月23日。「全国巡幸」で訪ねた北海道の帰路、昭和天皇が香淳皇后と共に、羽田空港に降り立ちました。皇室と空の旅には知られざるエピソードがあります。4回にわたり皇室と飛行機、そして外国訪問の意外な関係を振り返ります。(日本テレビ客員解説委員:井上茂男)



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【コラム】「皇室 その時そこにエピソードが」
第1回「空の旅とオーロラと国際親善」(2/4)
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■オーロラに見入った昭和天皇

極地の空を赤や緑に染めるオーロラには、三笠宮さまの兄の昭和天皇にもエピソードがあります。

1971(昭和46)年9月、昭和天皇は香淳皇后と一緒に、ベルギー、イギリスなどヨーロッパ歴訪の旅に出かけました。この時、日本航空の特別機は羽田を出発してアメリカのアンカレジへ。ワシントンからニクソン大統領夫妻が駆け付けてお二人を出迎え、日本の天皇と米国の大統領の会見が初めて行われました。

歓迎行事や会見など1時間40分に及ぶ行事が終わり、デンマークのコペンハーゲンに向けて特別機のエンジンが始動したその時、東の空をオーロラが黄、緑、赤などに染めました。アラスカでもひと冬に2、3度しか見られないという自然からの贈りもの。新聞各紙は「オーロラが〝よい旅を〟」(読売)、「オーロラの下 堅い握手」(朝日)と大見出しで伝えました。

アンカレジからコペンハーゲンへの空の道は、14年前の三笠宮ご夫妻の旅を思い起こさせます。当時の入江相政侍従長の『いくたびの春 宮廷五十年』(TBSブリタニカ)によると、昭和天皇は訪欧が決まると「オーロラは見えないだろうか」とたずね、入江侍従長は日本航空などに問い合わせて「この時期には絶対見られない」と伝えました。

ところがです。アンカレジを飛び立って、入江侍従長は昭和天皇に呼ばれます。ワイシャツを脱ぎ、用意された赤い法被に着替えてくつろいでいたのでもたもたしていると、「早く来ないと消えてしまう。早く」と催促されます。 

行ってみると、両陛下の部屋は電気が消されて真っ暗。「オーロラが出たよ」。昭和天皇はご機嫌でした。「出ている。出ている。まっ白な、煙のような、雲のような、太い帯が長く長くつづいている。これがオーロラか」と入江侍従長は綴っています。30、40分飛んでもオーロラは消えず、昭和天皇は夜の食事もかまわず見入っていました。「オーロラもいいけれど、これではキリがない。食事にしよう」。そのひと言で食事が始まりました。

コペンハーゲン到着を伝える9月28日の読売新聞夕刊には、宮内庁の宇佐美毅長官の談話が載っています。「アンカレジを出てから、見事なオーロラが日の出まで約3時間も続いたので大変喜ばれ、機内の電気を消して長い時間楽しんでおられた」

昭和天皇は、皇太子時代の1921(大正10)年にヨーロッパを旅行しています。軍艦「香取」に乗って英国まで2か月。それから50周年の節目に、歴代天皇で初めての外国訪問が巡ってきました。その記念すべき旅をオーロラが彩ったのです。

■北海道の帰り 初めて飛行機に乗った昭和天皇
皇室の長い歴史の中で、飛行機に初めて乗った天皇は、昭和天皇でした。

1954(昭和29)年8月23日。「全国巡幸」で訪ねた北海道の帰りでした。「全国巡幸」は、戦災で苦しむ人々を励ますために1946(昭和21)年に始まり、沖縄を除く46都道府県を訪ねました。その締めくくりが北海道の18日間の旅でした。

行きは青函連絡船「洞爺丸」で津軽海峡を渡り、帰りに日本航空の「シティ・オブ・トウキョウ号」(ダグラスDC-6B型機)に乗っています。国際線用のプロペラ機。日本航空によると、前日、羽田に戻った飛行機を徹夜で整備・改装し、北海道へ送り出したそうです。後部に両陛下のコンパートメントが設けられました。

当時の「千歳飛行場」から羽田空港までの飛行時間は約2時間。昭和天皇は機内で日本航空の柳田誠二郎社長から日本の航空事情について説明を聞き、希望して操縦室に入れてもらい、正副操縦士の間の狭い通路に立って計器を見ています。昼食はサンドイッチ、ジュース、コーヒー、メロン。入江日記には「うまいサンドウイッチ」(原文のまま)でした。

今では考えられないことですが、飛行機は東京に入り、明治神宮や皇居の上空を一周しています。『昭和天皇実録』にも「東京上空を一巡」とあり、入江日記には、「『御文庫』がよく見える」と記されています。「御文庫」は、昭和天皇と香淳皇后が、空襲で焼けた奥宮殿の代わりに住んだ防空施設です。当時は宮殿も焼失してありませんでした。昭和天皇はどんな思いで見たのでしょうか。この日の東京の気温は、その夏最高の36.3度。涼しい北海道から戻ってさぞや暑かったことでしょう。

この空の旅を昭和天皇は歌にしています。

  ひさかたの雲居貫く蝦夷富士のみえてうれしき空のはつたび

  松島も地図さながらに見えにけりしづかに移る旅の空より

日本航空の柳田社長は、「両陛下と同乗して」という手記を読売新聞に寄せ、「両陛下のごとう乗が国民の航空に対する理解を深める上から、まことに有難き次第であるとお礼申上げたところ皇后さままでニコヤカに労をねぎらわれたのには感激した」と綴っています。

東海道新幹線が東京―新大阪を4時間で結ぶのは10年後。北海道への旅は青函連絡船が当たり前だった時代です。日本航空の柳田社長の言葉を待つまでもなく、飛行機が広く知られるようになったのは間違いないと思います。

■「天皇旗」は北海道訪問から使われた

この旅では、戦後もう一つ初めてのことがありました。

赤い絹地に菊章を金糸で刺しゅうした鮮やかな旗、「天皇旗」です。昭和天皇が乗った青函連絡船や自動車に掲げられました。対日講和条約が発効して日本が独立国としての主権を回復したのは2年前の1952(昭和27)年。アメリカに気兼ねすることなく、天皇の車だとひと目でわかるように「天皇旗」を立てようということだったのでしょう。

『昭和天皇実録』は、「今回より、新調の天皇旗・皇后旗が御料車・御召列車・御召船に用いられ、以後、公式の御外出時に使用される」と記しています。各地の訪問や公務で立てられる天皇旗。今ではおなじみの光景ですが、それは全国巡幸の北海道から始まりました。  (続)


※写真はアンカレジに到着し ニクソン大統領の出迎えを受ける昭和天皇(1971年9月27日 写真提供・読売新聞社)