専門家“訴訟などのリスク避けたのでは” 新築マンション解体へ…引き渡し直前に
完成間近で7月には契約者に引き渡されることになっていた東京・国立市のマンションが、突然解体されることになりました。近隣の住民からは「富士山が見えなくなる」などの声があがっていました。
なぜ、解体決定がこのタイミングになったのでしょうか?不動産の売買にくわしい専門家に話を聞きました。
東京・国立市にそびえる10階建ての分譲マンション。全18戸で価格帯は7000万円台が中心です。7月に契約者への引き渡しを控えていましたが…
記者
「マンションの前に解体と書かれた張り紙があります」
まさに急転直下。完成間近で解体されることになったのです。新築マンションに何があったのか…。
近隣住民が口にしたのは“景観”への懸念です。
国立市民
「入口からずっと富士山が見えてたけど、それが見えなくなって」
マンションの目の前の通りは「富士見通り」。その“名”が示すとおり、目の前に雄大な富士山が見える通りとなっています。ただ、マンションが建ってからは、富士山の半分が建物の陰に隠れてしまったのです。
「関東の富士見100景」にも選ばれた自慢の場所の変化に…
近隣住民
「日常的に景色を見てたから、非常に残念だと思う」
「富士見通りじゃなくなっちゃう」
さらに、懸念は景観だけではありません。
近隣住民
「特に近隣の方は、日当たりの問題で大きく変わるでしょうから」
今回のマンションは、周囲の建物と比べて高さがあります。近隣住民からは「ソーラーパネルをつけた時に、近くにマンションが建たないと聞いていたのに、マンションが建ってしまった」などと、日が当たらなくなることに戸惑いの声もあがっていました。
マンションを建設した積水ハウスは、市の基準や法令を満たし、住民との話し合いで建物の高さを変えるなどしてきましたが、今回、完成間近の解体に至ったということです。
積水ハウス
「法令に不備などの問題があったわけではない。周辺の影響に関する検討が不十分であったことについて重く受け止めています」
契約者には解体について説明し、順次、返金などの対応を行っているということです。
──契約者の方が入居間近だったにもかかわらず、突然の解体になったのはなぜなのか?
マンションの建設前と建設後を比べると、建設後は(マンションの)シルエットが富士山の右側を隠すかたちになっています。法令に問題はなかったものの、景観が損なわれるということで住民から反発の声があがっていました。
積水ハウスなどによると、積水ハウス側がマンションの事業計画を公表したのが3年前の2021年2月です。当初11階建て、高さ36.09メートルの予定でした。
しかし、市民からは反発する声があがっていました。そこで2022年1月に行われた3回目の住民説明会で積水ハウス側は10階建て、高さ32.70メートルとする変更案を提示しました。
しかし、これにも多くの市民がさらに階数を減らし高さも低くすることを要望しました。これに対し、市民の陳情書によりますと、積水ハウス側は「応じられない」と答えたといいます。
その後、市民からの陳情を受け、2022年7月に市長が積水ハウス側に対し、建物のボリューム感のさらなる低減などを求める指導書を交付しました。その指導書に対応して、9月に積水ハウス側は高さをさらに下げ、30.95メートルにする変更案を出しました。
しかし、この案にも市民がさらなる低減を求める中、積水ハウスは2023年1月にマンションを着工しました。そして、契約者には7月に部屋を引き渡す予定でしたが、6月3日に事業中止と解体を決定しました。その理由について、積水ハウスは「建物周辺の影響に関する検討が不十分であった」としています。
──市民との折り合いがつかないという話はよく聞くが、引き渡し直前で解体を決めることは過去にもあったのか?
不動産の売買にくわしい不動産コンサルタントの長嶋修さんによると、不動産業界で30年働いている中で初めて聞くケースだったといいます。
ただ、解体に至るまでに住民の要望に対して何度も高さの変更に応じたことは「真摯(しんし)な対応」だったと話しています。
──解体決定のタイミングが引き渡し直前になってしまったのはなぜなのか。
長嶋さんによると、あくまでも推測としたうえで、「最後まで社内で議論があったのではないか」ということです。
最終的に訴訟や裁判になったり、会社の評判が悪くなったりするリスクを避けたいことが解体を決めた理由の1つではないかということです。
さらに積水ハウスのメイン事業は、マンションではなく一戸建てであること、今回のマンションは全18戸と事業としては“小規模”で、考えられる今回の損失額は数十億円から100億円弱とみられることから、不動産大手の積水ハウスにとっては、リスクを考えたときに、解体を選ぶ方が影響が少ないと判断したのではないかということです。