【昭和100年 映像館④】百花繚乱 “昭和初期の美人コンテスト”後編 昭和7年
昭和が誕生してから2025年で100年。欧米に追いつけ追い越せの激動の時代に、たくさんの映像を残したカメラマンがいました。そのカメラマンがレンズ越しに見た昭和の貴重な映像を紹介します。第4回は、昭和初期の美人コンテスト(後編)です。
美人コンテストは、欧米では中世の頃から開かれていたといいます。日本では、1891年(明治2年)に集客目当てで、『東京百花美人鏡』なるコンテストが開かれたそうです。エントリーされたのは、東京の芸者さんたち。新橋や赤坂などから100人以上が参加しました。今回は、名古屋の地元新聞社が主催した『海の女王』撰定大会の後編をお伝えします。海水浴場のステージに水着姿で登場する参加者たち。大正モダンの香りを漂わせた昭和7年の出来事です。
■映像説明
参加者は、カフェー(現在のクラブやキャバレー)の女性従業員たち。明治時代には、写真を応募しての美人コンテストなどがありましたが、今回は、愛知県知多市の新舞子海水浴場で、参加者が水着姿で審査に臨みました。新舞子の駅では、大観衆が出迎え、盛り上がりの様子を伝えています。今はありませんが、桟橋を進んで新舞子の海岸に降りていく様子が映っています。その後、参加者は、水着姿で審査へと向かいます。因みに美人コンテストで、初めて水着審査が取り入れられたのは、1921年(大正10年)アメリカで開かれた『ミス・アメリカコンテスト』だといわれています。映像を見て分かるとおり、水着といっても普通のワンピースのようなモノ。でも当時としては、人前で水着姿のなるということは、大胆だったようです。参加者たちの顔にも日焼け止めなのか白粉(おしろい)のあとが見られます。1932年8月14日の審査が終わり、翌15日に授賞式を迎えます。式の舞台は、コンテストを主催した新愛知新聞社本社。現在の中日新聞社ですが、場所は丸の内3丁目、現在の中日病院がある辺りです。当時の新聞の見出しには、【「海の女王」をはじめ/三十名の麗人集ふ】【楚々として驕らぬ/「海の女王」の純情】と記されています。「海の女王」は、大米亭本店の志津子さん。12人の審査員が、容姿だけでなく所作なども含めて選んだようです。女王に続、準女王や優良、佳良組と30人の女性が選ばれました。1932年(昭和7年)8月16日の同じ新聞の紙面には、【在満戦友へ真心の寄金】という記事が載っています。前年に勃発した満州事変。華やかな昭和モダンにも少しずつ軍靴の足音が近づいてきます。
■撮影者紹介
名古屋出身の映像作家:横井湖南氏(1910年~1957年=明治43年~昭和32年)。昭和の初め、映像制作会社や映画協会設立に関わる。映画の楽しさや奥深さを伝えた映像作家の草分け的存在。
【映像提供:横井克宜氏】