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福島出身の東電社員、忘れられない「無力感」 挑んだ燃料デブリの取り出し

2025年3月7日 11:10
福島出身の東電社員、忘れられない「無力感」 挑んだ燃料デブリの取り出し
デブリ取り出しに携わった地元出身東電社員

「核燃料『燃料デブリ』を取り出す」。去年8月、福島第一原発でかつてない困難な挑戦が始まった。人が近づけば死に至るほどの極めて高い放射線を出す燃料デブリ。これを取り出さなければ原子炉を解体し撤去する「廃炉」ができず、被災地の住民の帰還は叶わない。だが、このプロジェクトを巡っては度重なる「延期」と「中断」が相次いだ。「本当にできるのか」といった疑問の声も広がる中、11月に試験的取り出しは「成功」を収める。そこには、作業員たちの献身的な対応と、地元出身者の固い決意があった。

度重なる延期、そして中断…また中断…

2024年9月17日、原子炉建屋から少し離れた遠隔操作室は重い空気に包まれていた。東京電力や協力企業の技術者など約20人はモニターの向こうで起きた状況にショックを受けていた。「デブリ取り出し」まであと一歩のところでまた機器の異常が確認され、作業は振り出しに戻された。

「今のところ、原因は調査中となります。分かり次第お知らせします…」。

約60キロ離れた福島県庁で行われた東京電力の会見では広報担当者が無念の表情を浮かべていた。記者たちに説明する情報も極めて少なかった。
こうした事態はこれまでにもあった。デブリの試験的取り出しは当初2021年に実施される予定だったが、機器開発の遅れなどで3回にわたり延期された。3年後の2024年8月22日に始められる予定だったが、いざ機器をデブリに近づけようとした際に不具合が見つかった。機器の組み立て順番に誤りがあり、作業は18日間の中断を余儀なくされた。地元からの期待も寄せられていたため、速報ニュースでは「単純ミス」などといった厳しい見出しが躍った。機器を組み立てなおし、作業再開したところ今度は映像がダウン。「またか…」と多くの県民が肩を落とした。

大熊町出身のリーダー 突きつけられた"無力感"

プロジェクトでチームリーダーを務めるのが、第一原発がある大熊町出身で東京電力燃料デブリ取り出しプログラム部試験的取り出しPJグループの横川泰永さん(40歳)。14年前の原発事故の際は家族や地域の人たちが避難する光景を前に無力さを突き付けられたという。「社会の役に立ちたい」と幼いころから馴染みがあり、信頼ある企業だった東電に入社した。その東電が故郷に壊滅的な被害をもたらした。事故の加害者、そして被害者としてもデブリの取り出しには並々ならぬ思いを抱いていた。

「燃料デブリの試験的取り出しは廃炉への重要な1歩を踏み出すことになる。環境への汚染物質、汚染物質の流入、流出といったことが起きないように安全最優先で進めていく」。

横川さんは作業の進捗などを遠隔操作室のモニターを通したり、必要に応じて現場に出向いたりして監督する。東電の社員の他にも協力企業の作業員など含め1日に約60人が作業にあたった。放射線量が比較的高い原子炉建屋内部では、全面マスクなどの重装備をした作業員が現場で機器の組み立てなどにあたる。

一助になりたい 浪江町出身、職員の決意

作業の安全性を確認し、作業員たちの余計な被ばくを防ぐ役目を担当したのが、入社15年目で浪江町出身の井手宏さん(33)。浪江町も原発事故で一時全町民が避難を強いられた。井手さんは当時入社1年目で、事故の翌日は当直勤務が入っていたという。

「何としても次の日会社に行かないといけないっていう思いで、行ける道を頑張って行きながら、大熊町の独身寮の方まではたどり着いたんですけども、すでに避難が始まっていて、 どうすることもできないっていう状況で…周囲の方の『何やってるんだ』っていう声を聞きながらですね、自分の無力さを感じていました」。

原発事故から14年が経過しようとする中、井手さんの実家は放射線量が高く立ち入りが規制されている帰還困難区域の中にあり、今も帰ることができない。

「私と同じような思いをしている方もいると思いますので、そうした人たちが帰還できる一助になりたい」。

横川さんも、井手さんも故郷を取り戻す意味でもデブリ取り出しの重要性を認識していた。そのため、8月から始まったプロジェクトだが、毎日が緊張の連続で、気が休まることはなかったという。

スリーマイルよりも“高い壁”

2011年3月に起きた福島第一原発の事故では3基の原子炉がメルトダウンし、高熱の核燃料が原子炉を突き破り底に溶け落ちた。様々な金属などと混ざり合った核燃料は「燃料デブリ」と呼ばれ、3基合わせて推計880トンに上る。近づけば数分で人が死ぬほどの極めて高い放射線を出しているため、デブリを取り出さない限り原子炉建屋を解体し撤去する「廃炉」ができない。
世界初のデブリ取り出しは1979年にメルトダウンの事故を起こしたアメリカのスリーマイル島原発でも行われた。ただこの時は、デブリのほとんどが原子炉の中に留まり、事故から11年後にほぼ全てを回収している。福島の場合はさらに困難な環境にある。原子炉建屋内の一部の作業エリアでは毎時約1.5~3.0m㏜の線量が確認された。法定の被ばく線量限度を踏まえると1回の作業時間が20~30分程度と限定される。これに加え、幾重の防護服と手袋にマスクといった重装備の格好をした作業員にとって、仲秋とはいえ熱中症対策は欠かせない。

「もう失敗は許されない」入念な準備

カメラの不具合から1か月半が経った10月28日。故障したカメラの交換作業が終わり、横川さんたちは再び燃料デブリの取り出しにとりかかった。度重なる延期や中断に、地元では半ば“諦めムード”も漂うなかで、「もう失敗は許されない」と横川さんはチームの仲間に作業手順の確認を徹底しようと呼びかけた。

「またカメラの映像が映らなくなることがないか、といったところを慎重に確認しました。作業員の方々に、改めて作業手順通り進められるかどうかといったところを再確認しながら安全に作業を進めていこうという話をしました」。

1日2時間程度が限度の取り出し作業。機器を2号機格納容器に少し挿入しては終了。少し挿入しては終了を繰り返した。その間、井手さんは遠隔操作室と原子炉建屋内の現場を何度も行き来し、作業員と作業の流れやその作業にかかる時間、被ばく量などを確認した。井手さんの被ばく量が積み重なっていった。自分の心配よりも井手さんは、被ばくしながらも現場で献身的に対応してくれる作業員たちに感謝の気持ちを持ち続けたという。

「協力企業の方、作業員さん、遠隔操作された方とか特に放射線管理を対応いただいた方、非常にしっかりご対応いただいた」。

「おぉー!」 響き渡った歓喜 デブリ捉える

10月30日、格納容器の底でようやく機器のカメラが燃料デブリを捉えた。そして、機器先端に取り付けられた爪型装置でわずかな塊をつかみ、持ち上げた。遠隔操作室では「おぉー!」という歓声が起こる。遠隔操作を傍らで見守っていた横川さんは「手に汗握る瞬間だった」と振り返る。掴んだ燃料デブリを今度は落とさずに引き上げなければならない。行くまでが往路だとすれば、復路は同様かそれ以上に慎重さが求められる。地道な作業を経て11月2日、燃料デブリを取り出し、専用の容器に収容することに成功した。初めて取り出したデブリはわずか0.7グラムだったが、その意味はとてつもなく大きい。

「重要な1歩を踏み出せた。 今後は小規模取り出し、大規模取り出しといったデブリの取り出しに繋げていけるように、今回の知見を生かして次のステップに進めていきたい」。

0.7グラムの燃料デブリ…その意味は

取り出した0.7グラムの燃料デブリは、現在茨城県の施設などで分析が行われている。その過程では核燃料の主な成分であるウランも検出された。今後は、硬さや性質、線量など判明する。

原発事故直後から廃炉作業に携わる経済産業省・資源エネルギー庁の木野正登氏は次のように評価する。

「高さのわからない山をようやく登り始めた。たくさんの燃料デブリを取り出すためにどういう工事方法が必要になるのかが大事になるなかで、今回の取り出しは様々な教訓が得られた」。

今後、大規模に取り出すためにどんな装置や手段が必要なのか、あるいは取り出すのではなく他の方法での廃炉を目指す必要があるのかなど、技術面で得られる情報は大きいという。
本格的に取り出すための工法、そして処分方法や保管場所など今後決断しなければいけない重い課題は残ったままだ。東京電力はサンプルを増やすため、2025年春にも2回目となる試験的取り出しを行う方針だ。燃料デブリの取り出しは廃炉への一歩であって「廃炉そのもの」ではない。「高さのわからない山」を登る険しい道のりは始まったばかりだ。

最終更新日:2025年3月7日 11:10
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