原発事故後に受けた中傷、町のため闘った亡き父 故郷守るため子が挑むワイン造り
福島第一原発の事故により全ての住民が避難した被災地で新たな産業を生み出そうと奮闘する男性がいる。始めたのは広大な農地を活用したワイン用のブドウ栽培。1年目はブドウの木が病気にかかり実がつかず、2年目、3年目も収穫はできなかった。前途多難でも男性は前に進み続けた。「父も未曽有の困難に立ち向かった」。その強い思いには、故郷を守り帰還を果たせなかった亡き父の存在、そして、原発事故により引き起こされた誹謗中傷への深い悲しみが秘められていた。
「誰もやったことがない」被災地での挑戦
「すごいな~ちゃんとなるんですね。当初はどうなることやらと思ったけど…ちゃんと応えてくれるんですね」。
2019年の秋、福島県富岡町出身の遠藤秀文さん(当時46歳)は自分の畑に実ったブドウを満足げに眺めていた。畑は原発事故の影響で全町避難となった故郷・富岡町の海岸近くにある。ブドウ栽培を始めて4年目、ここでブドウが収穫できたのはこれが初めてだった。
富岡町は2011年3月に起きた原発事故で全域が避難区域となり、約16000人が避難を強いられた。人の営みが失われる中、環境から放射性物質を取り除く除染が進められた。2016年の春、立ち入りが許されたエリアで始まったのが町民有志10人によるワイン用のブドウ栽培。リーダーは遠藤さん、地元の測量会社を経営しながら、避難先から車で2時間ほどかけて畑に通った。町内でのブドウ栽培の実績はなく、しかもメンバーのほとんどが農業は未経験だった。畑に向かう度に傷んだ家々や誰もいない商店街など、静かに朽ちていく町の姿が目に映る。遠藤さんはこの状況を変えたいと強く思っていた。
「通いながらのブドウ栽培なんて誰もやったことがない。でも、全てを失った町には人々が戻ってこられる新しい産業が必要だ」。
都内の大手企業に就職し建設コンサルタントをしていた遠藤さんは震災の3年前に故郷・富岡町に戻った。新しく何かを建設するのではなく、「地域が本来持っている魅力を引き出したい」と思い描いていた矢先に震災で被災した。妻や子ども、両親は無事だったが家は津波に流され、会社は約60キロ離れた場所に避難させた。家族や従業員の暮らしを守ろうと多忙を極める中、故郷のために動き出したのは、父の存在があったからだ。
復興に命を捧げた父…遠藤家を襲う“誹謗中傷”
遠藤さんの父・勝也さんは震災当時、富岡町の町長を務めていた。当時71歳だった。物怖じしない泰然自若とした性格で、自分の言葉で語る政治家だった。勝也さんが怒りを露わにし、国と激しく交渉したのが町民の賠償額を決める時だ。地域によって差が出るという国に対し、「一律」での賠償を強く求め続けた。
「住民が帰還することを考えるなら、地域によって差が出て住民間での分断が起きるのは良くない」。
激務に追われる中、体調を崩し緊急入院することもあった。除染やインフラ整備の加速なども訴え、2013年3月には避難区域の一部で規制が緩和された。しかし、復興への道筋が見えてきた2014年7月、勝也さんは避難先で亡くなった。74歳、故郷への帰還は果たせなかった。
遠藤さんは「仕事一筋の父親でしたね」と苦笑する。
「父が測量会社を立ち上げて忙しかったので、学校行事や家族の行事にはほとんどいなかったですね。親子の時間ができたのは私が大人になってからですよ」。
ただ、震災後、遠藤さん家族は重い空気に包まれた。町民から勝也さんへ猛烈な批判が日々寄せられた。故郷を追われ、家族とも離れ離れになった町民の怒りや不満は最も身近なリーダーに向けられた。勝也さんが賠償の交渉に精力を注いでいたためか「遠藤家は多額の賠償金で県内に複数の家を建てた」というデマまで広められてしまった。俯き寂しげにしている父の姿なんて、それまで見たことはなかった。
「信頼していた人からも心無い言葉をかけられ、父は無念だったと思う。一度広まったデマは消すことはできないし…」。
さらに、遠藤さんがブドウ栽培を始めた際は…。
「私だけじゃなく、10人の有志も色眼鏡で見られていたと思う。それは、辛かったですね…」。
遠藤さんが父から学んだことは多い。未曽有の大災害に襲われた町の長として、対応に当たる父の背中からリーダーの意味を強く感じていた。「このままでは本当に故郷がなくなってしまう」と、形は違えど父と同じように遠藤さんも先頭に立ち、町の復興に向け挑戦する道を選んだ。
海外で感じたワインの力を被災地で
前職で海外出張が多かった遠藤さん、世界を回る中でワインの魅力に気づく。ワインがある地域では農産物や魚介などの食材がワインと合わせることで引き立ち、ワインが街を潤わせる大きな役割を担っていたという。
「富岡にも海や山の質の高い食材がある、それを結びつけるワインを作ることで、街の魅力を引き出し、被災地に人が訪れるようにしたい」。
しかし、ブドウ栽培1年目は梅雨の季節に葉の病気が蔓延した。遠藤さんたちは避難先から通う回数を増やし消毒も強化したものの、知識も無く、対策を講じられず収穫はできなかった。2年目、3年目もほとんどブドウは収穫できない。ブドウの木の前で立ち尽くすしかなかった。
「残酷かもしれない…」ワイン造りの現実
栽培技術などを学ぶため遠藤さんたちは山梨県甲州市にある奥野田ワイナリーを訪れた。小規模だが上質なワインを造り、高級ホテルとも取引がある。悩む遠藤さんたちに社長の中村雅量さんは「残酷かもしれないが…」とワイン造りの現実を伝えた。
「美味しいワインができ始めるのはブドウを植えてから10年くらいかかります」。
ブドウの寿命は約100年と言われているが、40年ほどかけて約13mまで根を伸ばしていく。地中深くの豊富なミネラルを吸い上げて、良質なブドウの実をつけるため長い時間が必要だという。さらに、大きな課題があるという。
「ワインを上手に販売していく方がブドウ栽培よりももっと辛い」。
生産したワインが利益を生み出さないとビジネスとして成立しない。利益を生み出すために必要なのは、安定的なブドウの収穫、広大な農地、それに費やせる予算…。次々と立ちはだかる壁はどれも大きい。
父の誕生日に新たな一歩踏み出す
2017年4月、ついに富岡町の避難指示が遠藤さんのブドウ畑を含む一部で解除。遠藤さんは農地拡大に向け、JR富岡駅東側の地権者たちと交渉を進めた。海から近く津波で被災したこのエリアは災害危険区域に指定され、住宅は建てられない。土地の活用に悩んでいた地権者にとっては朗報だった。そして、4年目の栽培に合わせ、社団法人を立ち上げ農地に常駐できる農業経験者の採用に踏み切った。2018年11月15日、その日は父・勝也さんの誕生日だった。
「誰よりも富岡町を愛した父だった…。故郷に眠る父を喜ばせたいと常々思っている」。
ゆっくりだが着実に遠藤さんは歩みを進めていった。
ついに完成 父の仏壇に供えたワイン
2019年秋、青々と茂ったブドウ畑の中で遠藤さんは葉をかき分けながら探し回っていた。葉の間に隠れていたのはたわわに実ったブドウだった。遠藤さんはハサミを入れ、ゆっくり実をもちあげて笑った。
収穫できたのは約70kg、放射性物質の検査でも問題はなかった。さっそく山梨県のワイナリーに醸造を依頼した。そして、翌年の1月についに富岡産ワインが完成した。遠藤さんはそのワインを富岡町にある父・勝也さんの仏壇に供え、手を合わせた。
「今でも父ならどう考えて判断するのかを考えますね。それぐらい大きな存在です。今はホッとしているんじゃないかな」。
圧倒されたボルドー…次世代に託す思い
その後、少しずつ農地を広げ、ブドウの収穫も年々増えていった。昨年は約7.5トンが収穫でき、いよいよ本格的なワイン造りと、販売が始まる。遠藤さんは今年春に津波で流された実家近くに国の補助金を活用し、ワイナリーを開設する。併設されるレストランでは、地元の食材を使った料理とワインを提供する。
遠藤さんは昨年夏に初めて世界的なワインの生産地、フランス・ボルドーを訪れた。地平線を作るほどの広大なブドウ畑、樹齢120年を越えるブドウの木。その全てに遠藤さんは圧倒された。
「うわ~…うわ~・・・すごいね…」
紀元前から先人たちが脈々と受け継いできたワインの文化や伝統が生活のいたるところに根付いていた。遠藤さんは力強く語る。
「本場フランスの人が驚くようなワインを造っていきたい。ただ、100%以上の品質のワインを造るのは次の世代だと思う」。
100年後の富岡町を思い描きながら、遠藤さんの挑戦が続いている。