東日本大震災の危機に駆けつけた巨大ポンプ車「大キリン」は中国企業の無償提供…処理水海洋放出に当時の担当者は「お互いに大切な国家」
【死と隣り合わせの現場…「何かできないか」中国出身男性の思い】
その光景は現場で事故収束作業にあたった人たちの脳裏に今もこびりついている。2011年の3月12日と14日、15日に起きた福島第一原発の水素爆発。吹き飛ばされた無数のコンクリート片が地上に砕け落ち、大量の放射性物質が周囲に撒き散らされた。死と隣り合わせの状況下で、原子炉建屋のすぐ傍にいた作業員や自衛官たちは「まるで戦場のようだった」と語る。
「ものすごい音がして、何かが吹っ飛んできて建物のガラスとかも一気に壊れて…」。「人の頭ほどのコンクリートが空から降ってくる、あたったら死ぬと思った」。「(爆発は)響く音でした。そして放射能を含んだ煙が迫ってきて、被ばくしないために、みんなで一斉に車の中に逃げて…息を殺して煙が通り過ぎるのを待って…」。
【東日本壊滅の危機…「(費用は)いくらでもいいから、持ってきて」】
3月17日から自衛隊はヘリによる上空からの注水を決行したが、プールにピンポイントに入れることはできなかった。東京消防庁による放水でなんとか状況の悪化を食い止めていたが、効果的な一手を打てない状況だった。
【日本に「販売」しない 会長の決断】
「(巨大ポンプ車を)日本に販売してはいけません。利益はいらない。寄付しましょう。こういう時はみんな助け合いです。技術的なサポートも提供しましょう」。
巨大ポンプ車の販売価格は約1億5000万円。すでにドイツの企業への販売が決まっていて、上海の港で出荷待ちの状態だった。ドイツ企業の快諾もあり、すぐに日本に向け出発した。しかし、大型機械の輸送は通常なら通関の手続きなどで数週間、場合によっては数ヶ月かかってしまう。
【「1分1秒の争い」“善意”から広がった助け合いの輪】
刻一刻と迫る危機。龍さんは、三一重工の社員などとチームを組み。最短で巨大ポンプ車を日本へ運ぶ作戦を考えた。
「政府対政府だと時間がかかる。一番早いルートは赤十字だ」。
巨大ポンプ車を日本赤十字に渡るよう手配し、空きがあった船や港を抑え、上海港出発からわずか2日で大阪の港に届けた。
「1分1秒の争い、そんな緊迫感の中でやっていた」。
龍さんは事前に関係各所との協議を済ませ、巨大ポンプ車は日本に上陸した後、パトカーによる先導と護衛の下、運ばれた。
巨大ポンプ車は千葉県野田市に到着し、そこで2日間、三一重工の技術者が東京電力の社員に遠隔での操作方法などを教えた。ここにくるまで、龍さんをはじめ、三一重工、港や千葉県での訓練土地を確保した大阪や東京の企業など日中の様々な立場の人たちが関わっていた。国境を越えて、立ちはだかる巨大な危機を前に、手を取り合った。
【「宝物」の経験…日本を救ったのは中国企業の“善意”】
「嬉しくて、全員嬉しかった。社会の役に立ったことはいまでも宝物」。
この注水作業によって危機は食い止められ、暴走する原発は安定化へ向かった。龍さんのアイディアからわずか1週間ほどの出来事だった。東日本壊滅の危機を回避できた背景には、一人の善意から広まった助け合いがあった。大活躍を果たした巨大ポンプ車はその後、「大キリン」という愛称をつけられ、今も非常時に備え、福島第一原発の構内にある。龍さんの会社は今も定期的に部品の交換やメンテナンス作業を無償で続けている。
【「対話が足りない」始まる処理水の放出、深まる日中関係の溝】
「本来であればお互いに大切な国家のはずです」
龍さんも今の日中関係を危機的だと感じている。禁輸措置は日本で水産業などを営む人に、中国国内で日本食店を展開する人にも、大きな影響を与える。しかし、科学的に安全と説明する日本政府の姿勢には疑問も残る。
「普通なら、なぜ十数年溜めたのに今放出するのか、影響がないならなぜ今まで放出しなかったのかと思われる。政府の決定プロセスはもちろんあるが、国が違えば、関心や得られる情報量は当然変わる。日本でずっと生活しているからこそ納得できたこともある」。
その上で、龍さんは国際的に理解を深めていくためには継続的な対話が欠かせないという。まずは、その対話を始められるきっかけを見出すことが日中両政府に求められているのかもしれない。
「処理水について正しく海外に理解してもらうためには、もっと国家間の会話と説明が必要。お互いの相互理解と助け合いが大事。国と国、あるいは国民と国民の相互理解が深まっていけば、友好にもつながっていく」。
コロナ禍を経て、世界中で人と人との交流が再び始まっている。立ちはだかる国家間の壁に、「善意」の輪が再び広がることを期待したい。