パリパラリンピック銀メダリスト・鬼谷慶子選手 パラ陸上への思いや今後の目標は【高知】
パリパラリンピック陸上女子円盤投げで見事、銀メダルに輝いた高知市出身の鬼谷慶子選手。
パラ陸上への思いや今後の目標について聞きました。
パリパラリンピック陸上女子円盤投げ・座位F53。
高知市出身の鬼谷慶子選手は初出場にして決勝の大舞台に臨んでいました。
1投目で自身の持つアジア記録を1メートル以上上回る15メートル69センチをマーク。
2投目は記録をさらに伸ばし、アジア記録を更新する15メートル78センチ。見事、銀メダルを獲得しました。
パラリンピック県勢の個人競技では、1984年以来2人目の女性メダリストという快挙でした。
12月、鬼谷さんが練習する東京の障害者スポーツセンターを訪ねました。
円盤の重さは約1キロ。力強い一投が次々と繰り出されます。
■鬼谷さん
「ただただ距離を伸ばすことが楽しくてやっているので、どうしたら伸びるだろうとか、だめだった時は何故どこがだめだったのか、考えるのがそもそも好き」
鬼谷さんが陸上競技を始めたのは中学生の時。高校ではハンマー投げで国体にも出場する有力選手でした。
難病を発症したのは、大学進学後の20歳の時。体を思うように動かせなくなり車いすでの生活を送ることになりました。発症当時はにわかに信じることができず、寝たら治るだろうと思っていたという鬼谷さん。しかし、闘病生活は長きにわたりました。
■鬼谷さん
「自分が病気になってから長期療養した期間では、結構、1日1日が大変なときもあって。そのとき自分が出来ることを1じゃなくて0.5とかをやる。それがやれない日があっても構わないという気持ちで一歩ずつ来たような気がする」
リハビリに励む中で出会ったのがパラスポーツ。その後、中学生から打ち込んできた陸上の世界に再び飛び込みました。
■鬼谷さん
「本当に病気をしてから自分が好きなことも分からなくなっていたり、どうやって生きていこうとばかり思っていたので、好きなものも見失ってパラスポーツを始めたことで、打ち込めることがあるというのが人生の中で大事なことだというふうに感じて、これが将来どういう風につながるかは分からないけど絶対に続けた方がいいという直感はあって、それがどんどん周りの方が投てき台を作ってくださったりで進んでいって、そういうのが2023年だったので、ひとつトンネルを抜けられたのかなと思った」
鬼谷さんを一番近くで支え続けてきたのが、難病を発症する前から交際していた夫の健太さんです。
建太さん自身も投てき種目の経験があり、電動車いすから投てき台への移動や、投げる前のストレッチなど様々なサポートを行っています。
また、鬼谷さんが投げる様子を動画で撮影し、どうすれば理想のフォームに近づけるか2人でとことん意見を交わします。
1回の練習で30回ほど投げるという鬼谷さん。
1投1投、改善を繰り替えし「泣きの1投」が何度も。ストイックに自分自身と向き合います。
■健太さん
「こだわったらとことん追求する、本当にすごいなと思う。まあこれくらいでいいかとかがない方なのですごい」
鬼谷さんには難病を患ったことで大切にするようになった考え方があります。
■インタ鬼谷さん
「今一番大事にしていることは楽しむこと。競技も楽しいだけではもちろんないときもあるが、でも、それでもやり始めた時は楽しくてやり始めたので、その気持ちを出来るだけ忘れないように楽しもうと思って、他のこともだが、やっている」
この日は鬼谷さんが学生の頃から行きつけだという焼き肉店へ。パラリンピック後に祝勝会もしたという店には鬼谷さんのサインが飾られています。
健太さんや鬼谷さんの姉家族との食事にお邪魔しました。
リラックスした雰囲気のなかで銀メダル獲得について改めて思いを聞くと。
■鬼谷さん
「練習でもほんと飛ばしたことない記録だったので、正直本当に驚きだった。大会の2日前までいつもと違う緊張を感じていたが、試合の日はここに出られただけで胸がいっぱい。あとは投げるだけと思えたからいい感じに肩の力が抜けた」
鬼谷さんが何度も口にするのが、健太さんをはじめ周囲の人たちへの感謝の気持ちです。
■鬼谷さん
「自分だけだったら、ああもういいかなみたいなやめちゃっててもおかしくないような場面がたくさんあったんですけど、でもそのたびに解決策や方法を考えてくれたり、協力してくれて続けてきたらそういうご褒美というか。家族とか周りの人がいてくれたからこそメダルがあったのかなと思う」
日常生活も競技も夫婦二人三脚。鬼谷さんは健太さんの「まっすぐなところ、健太さんは鬼谷さんの「可愛らしいところ」が好きだそうです。
■健太さん
「何日も夜遅くまでフォームを研究したりとか、筋トレを死ぬほど追い込んだりとかやっていることは自分は知っていたが、その頑張りが報われて、メダルという目に見える形で多くの人に慶子が頑張った証が認められて嬉しく思う」
鬼谷さんは推しが県のイメージキャラクター・くろしおくんだということも明かしてくれました。
■鬼谷さん
「私、小学校1年生の時に高知国体があって、その時に姉がコーラスで国体の開会式に出るみたいな、それでもらったなんかにくろしおくんがついていて、可愛すぎると思って国体出たいみたいな。パラリンピック決まったときも県庁に表敬訪問行かせてもらってすごい嬉しくて、その写真を携帯の待ち受け、ロック画面にしてそれでパラリンピック終わって帰ったときにくろしおくんに見せた」
12月21日、鬼谷さんは30歳の誕生日を迎えました。
私たちは鬼谷さんにサプライズ動画を用意していました。鬼谷さんの母校、学芸高校陸上部の同級生からのお祝いメッセージです。
■鬼谷さん
「全然卒業してからなかなか会えていなかったので、本当に私もみんなどうしているかなという風に思っていて、今回こんな風にメッセージをくれて感激。色んなことをみんなに教えてもらったし、自慢の同期。こうやって応援してくれてメッセージをくれて本当に嬉しい」
多くの人の支えがあって今の自分がある。そう話す鬼谷さんの次の目標は、誰かを応援するアスリートになることです。
■鬼谷さん
「今までと変わらず挑戦者、何かに挑戦するという気持ちでいれば新しい気持ちでスタートが出来るかなと思って。誰かを応援するために競技をするという理由も大きくなって、いままでとはちょっと違う気持ちで競技をしていこうかなと思っている」
鬼谷さんは、これからもひたむきな挑戦者として前を向きます。最後に、県民へメッセージをもらいました。
■鬼谷さん
「みなさんいつも応援してくださってありがとうございます。高知に帰省した際にはたくさんの方が応援してたよとか見てたよという風に声をかけてくださって、本当に温かいなという風にいつも思っている。高知の皆さんに明るく元気になるようなニュースをお届けできるようにこれからも精一杯頑張ろうと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします」
パラ陸上への思いや今後の目標について聞きました。
パリパラリンピック陸上女子円盤投げ・座位F53。
高知市出身の鬼谷慶子選手は初出場にして決勝の大舞台に臨んでいました。
1投目で自身の持つアジア記録を1メートル以上上回る15メートル69センチをマーク。
2投目は記録をさらに伸ばし、アジア記録を更新する15メートル78センチ。見事、銀メダルを獲得しました。
パラリンピック県勢の個人競技では、1984年以来2人目の女性メダリストという快挙でした。
12月、鬼谷さんが練習する東京の障害者スポーツセンターを訪ねました。
円盤の重さは約1キロ。力強い一投が次々と繰り出されます。
■鬼谷さん
「ただただ距離を伸ばすことが楽しくてやっているので、どうしたら伸びるだろうとか、だめだった時は何故どこがだめだったのか、考えるのがそもそも好き」
鬼谷さんが陸上競技を始めたのは中学生の時。高校ではハンマー投げで国体にも出場する有力選手でした。
難病を発症したのは、大学進学後の20歳の時。体を思うように動かせなくなり車いすでの生活を送ることになりました。発症当時はにわかに信じることができず、寝たら治るだろうと思っていたという鬼谷さん。しかし、闘病生活は長きにわたりました。
■鬼谷さん
「自分が病気になってから長期療養した期間では、結構、1日1日が大変なときもあって。そのとき自分が出来ることを1じゃなくて0.5とかをやる。それがやれない日があっても構わないという気持ちで一歩ずつ来たような気がする」
リハビリに励む中で出会ったのがパラスポーツ。その後、中学生から打ち込んできた陸上の世界に再び飛び込みました。
■鬼谷さん
「本当に病気をしてから自分が好きなことも分からなくなっていたり、どうやって生きていこうとばかり思っていたので、好きなものも見失ってパラスポーツを始めたことで、打ち込めることがあるというのが人生の中で大事なことだというふうに感じて、これが将来どういう風につながるかは分からないけど絶対に続けた方がいいという直感はあって、それがどんどん周りの方が投てき台を作ってくださったりで進んでいって、そういうのが2023年だったので、ひとつトンネルを抜けられたのかなと思った」
鬼谷さんを一番近くで支え続けてきたのが、難病を発症する前から交際していた夫の健太さんです。
建太さん自身も投てき種目の経験があり、電動車いすから投てき台への移動や、投げる前のストレッチなど様々なサポートを行っています。
また、鬼谷さんが投げる様子を動画で撮影し、どうすれば理想のフォームに近づけるか2人でとことん意見を交わします。
1回の練習で30回ほど投げるという鬼谷さん。
1投1投、改善を繰り替えし「泣きの1投」が何度も。ストイックに自分自身と向き合います。
■健太さん
「こだわったらとことん追求する、本当にすごいなと思う。まあこれくらいでいいかとかがない方なのですごい」
鬼谷さんには難病を患ったことで大切にするようになった考え方があります。
■インタ鬼谷さん
「今一番大事にしていることは楽しむこと。競技も楽しいだけではもちろんないときもあるが、でも、それでもやり始めた時は楽しくてやり始めたので、その気持ちを出来るだけ忘れないように楽しもうと思って、他のこともだが、やっている」
この日は鬼谷さんが学生の頃から行きつけだという焼き肉店へ。パラリンピック後に祝勝会もしたという店には鬼谷さんのサインが飾られています。
健太さんや鬼谷さんの姉家族との食事にお邪魔しました。
リラックスした雰囲気のなかで銀メダル獲得について改めて思いを聞くと。
■鬼谷さん
「練習でもほんと飛ばしたことない記録だったので、正直本当に驚きだった。大会の2日前までいつもと違う緊張を感じていたが、試合の日はここに出られただけで胸がいっぱい。あとは投げるだけと思えたからいい感じに肩の力が抜けた」
鬼谷さんが何度も口にするのが、健太さんをはじめ周囲の人たちへの感謝の気持ちです。
■鬼谷さん
「自分だけだったら、ああもういいかなみたいなやめちゃっててもおかしくないような場面がたくさんあったんですけど、でもそのたびに解決策や方法を考えてくれたり、協力してくれて続けてきたらそういうご褒美というか。家族とか周りの人がいてくれたからこそメダルがあったのかなと思う」
日常生活も競技も夫婦二人三脚。鬼谷さんは健太さんの「まっすぐなところ、健太さんは鬼谷さんの「可愛らしいところ」が好きだそうです。
■健太さん
「何日も夜遅くまでフォームを研究したりとか、筋トレを死ぬほど追い込んだりとかやっていることは自分は知っていたが、その頑張りが報われて、メダルという目に見える形で多くの人に慶子が頑張った証が認められて嬉しく思う」
鬼谷さんは推しが県のイメージキャラクター・くろしおくんだということも明かしてくれました。
■鬼谷さん
「私、小学校1年生の時に高知国体があって、その時に姉がコーラスで国体の開会式に出るみたいな、それでもらったなんかにくろしおくんがついていて、可愛すぎると思って国体出たいみたいな。パラリンピック決まったときも県庁に表敬訪問行かせてもらってすごい嬉しくて、その写真を携帯の待ち受け、ロック画面にしてそれでパラリンピック終わって帰ったときにくろしおくんに見せた」
12月21日、鬼谷さんは30歳の誕生日を迎えました。
私たちは鬼谷さんにサプライズ動画を用意していました。鬼谷さんの母校、学芸高校陸上部の同級生からのお祝いメッセージです。
■鬼谷さん
「全然卒業してからなかなか会えていなかったので、本当に私もみんなどうしているかなという風に思っていて、今回こんな風にメッセージをくれて感激。色んなことをみんなに教えてもらったし、自慢の同期。こうやって応援してくれてメッセージをくれて本当に嬉しい」
多くの人の支えがあって今の自分がある。そう話す鬼谷さんの次の目標は、誰かを応援するアスリートになることです。
■鬼谷さん
「今までと変わらず挑戦者、何かに挑戦するという気持ちでいれば新しい気持ちでスタートが出来るかなと思って。誰かを応援するために競技をするという理由も大きくなって、いままでとはちょっと違う気持ちで競技をしていこうかなと思っている」
鬼谷さんは、これからもひたむきな挑戦者として前を向きます。最後に、県民へメッセージをもらいました。
■鬼谷さん
「みなさんいつも応援してくださってありがとうございます。高知に帰省した際にはたくさんの方が応援してたよとか見てたよという風に声をかけてくださって、本当に温かいなという風にいつも思っている。高知の皆さんに明るく元気になるようなニュースをお届けできるようにこれからも精一杯頑張ろうと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします」
最終更新日:2024年12月26日 10:27