【戦後80年】父が残した手記 戦争で中国から引き揚げてきた父が現地で見た記憶 「わが子に乳房を含ませたまま他界」《新潟》
子どもたちに残した自らの記憶
2017年に亡くなった上越市出身の小林規彦さん。生前にある手記を記し、家族に託していました。
父の「追憶」
それが、「追憶」と題した規彦さんの記憶です。
規彦さんの娘
「戦争当時祖、父の仕事の関係で家族で中国に渡っていた父が、子どもたちに残したいと思って、自分の経験を。そういう意味合いで残した文章があったので、皆さんに見ていただけたらと思って」
規彦さん家族は、父親が現地の鉄道会社での勤務が決まった影響で、中国に渡っていました。住んでいた場所は、中国東北部・満州国より南西に位置する山西省太原市でした。
豊かな暮らし求め満州へー ソ連侵攻で一変する生活
この当時の満州では、国策として移民政策がすすめられ、豊かな暮らしを夢見て多くの日本人が移住していました。そして、ハルビンから北東に300キロ離れた未開の地には「満州柏崎村」が作られるなど、県内からも約1万3000人が海を渡りました。荒れた野山を耕し多くの人の生活は徐々に安定していったといいます。
小林さん家族も―
規彦さんの娘
「日本にいるよりはいい生活はしていたようで、戦時中は」
しかし、1945年8月9日。ソ連軍が満州に侵攻し、現地の人の暮らしは一変します。食料や仕事がなくなり混乱を極めました。女性や子ども、高齢者が現地に取り残され、終戦後も難民生活を余儀なくされました。
収容所の過酷な環境 命落とす人も―
規彦さん家族は、帰国の許可が下りるのを天津の収容所で待ちました。その際の経験が手記に記されています。
手記の引用
『ある日、つもりに積もった疲労からか病からか、夫を戦地に残した乳飲み子連れの若い母親が、夜わが子に乳房を含ませたまま他界してしまった』
飢えや真冬の中国の厳しい寒さに、命を落とす人もいたといいます。
信じてきたものを疑う…… 米兵の行動とは
規彦さんの娘は、父の手記の中で印象深かったエピソードがあるといいます。
規彦さんの娘
「船に乗ってからも、その場で亡くなった方がいた。アメリカの兵士が水葬してくれる場面があって、父はアメリカ兵を憎むのではなく、ちゃんと水葬してくれて素晴らしいと」
船内で亡くなった日本人をアメリカ兵が水葬する様子を目にした父・規彦さん。のちに、こう記しています。
手記の引用
『戦中の日本人には到底考えられない行為に、眼を見張る驚き‼考えさせられた(略)鬼畜米英とさげすみ、中国人は犬猫同然と見、勝手気ままにやり放題と眼にあまる振る舞いをしてきた私たち』
そしてもう一つ、父・規彦さんから、忘れられない話が……
規彦さんの娘
「実は中国でも、日本人が向こうの人を殺めたりしたのを見たと、一度だけ聞いたことがあるんですけど、一度きりですね」
戦争は人の心を変えるー規彦さんにとって、当たり前のように信じてきたものを覆すような光景だったというのです。
父の経験 託された家族の思い
規彦さんは終戦後、日本に帰国。上越市で暮らす中で3人の子どもに恵まれました。
父が70年にわたり忘れることのなかった経験。託された家族は……
規彦さんの娘
「正直戦争に対する実感はないです。ただ、ロシアとウクライナの戦争の状況を見ていると、いま自分が住んでいるここで同じことが起こったら生きていけるのかなと思う。昔を経験してきた人たちの気持ちや体験を知っているべき なのかなと」
【情報提供をお待ちしています】
テレビ新潟では、戦後80年に際し、戦争を体験した人の証言を集めています。戦争を昔話で終わらせないためにー経験者ご本人や家族、そして経験者が残した日記や資料、写真、映像などの情報をホームページで募集しています。