大相撲入門からわずか1年での幕内優勝~大の里関・これまでの歩み
これまでの歩みを振り返ります。
小学1年生の時に相撲を始めた大の里関。
本名、中村泰輝。
そのきっかけは社会人大会で全国優勝の経験もある父・知幸さんの存在でした。
父 知幸さん:
「小学校1年の時に相撲よりまず野球がしたいと」
「とりあえず足腰、鍛えるために僕もやってた相撲をちょっとやってみないかって言って相撲やらせたら思いのほか」
「結果が出て本人もメダルと賞状をもらって嬉しくなって続けてきたという感じかな」
実績を重ねるごとに相撲にのめり込み、中学への進学の際にある決断をします。
相撲に打ち込むために親元を離れ新潟へ。
当時の心境については…
「何か強くなる為には本当に何かを犠牲にしなければという小学校6年生ながらに思いまして」
「もっと強くなるために本当に自分の時間や友達など全てのものを犠牲にして」
高校は新潟の名門、海洋高校へと進学し、1年生の時、インターハイで準優勝するなど着実に力をつけてきました。
そして子どもの頃観戦が楽しみだったという高校相撲金沢大会。
ふるさと石川での憧れの大会に3年連続出場。
3年生の時には個人戦で3位に輝きました。
名門、日体大相撲部へ進むとその才能はさらに開花。
入部当初から指導にあたってきた齋藤一雄監督は4年間での確かな成長を感じていました。
日体大相撲部・齋藤 一雄 監督:
「非常に真面目な子なんですよ。 決して天才型ではなくて努力型なので」
「普通にやれば私は大関、横綱になれる逸材だと思っています」
おととし12月、
アマチュアとして臨んだ最後の大会全日本相撲選手権。
順調に決勝へと勝ち上がり…
2年連続のアマチュア横綱に輝きました。
「(大相撲で)どこまで通用するかわからないけれど、上に行けるように頑張りたいと思います」
そして、去年3月に日体大を卒業。
思えば、1年ちょっと前まではまだ学生でした。
卒業後は元横綱・稀勢の里が親方を務める二所ノ関部屋へ入門することに。
しこ名は「大の里」。
大正から昭和初期にかけて活躍し相撲の神様といわれた名大関「大ノ里」の名を受け継ぎました。
「このしこ名に恥じないようにこの大の里っていう名前が全国に広まるように頑張りたいなと思います」
新弟子検査では、体格基準は余裕のパス。
その後の検査も難なくこなしていきました。
去年5月の初土俵からわずか1年。
瞬く間に番付を上げ、去年暮れにはことしの初場所での新入幕が決まりました。
年末、ふるさとに戻った際には地元の後援会から化粧まわしが贈られました。
倶利伽羅峠の戦いで源氏軍が牛にたいまつをつけて平家軍を襲った「火牛の計」を表現。
背景には、津幡町の旗と同じ緑が採用されています。
しかしその4日後、ふるさと石川を大きな地震が襲いました。
そんな中で迎えた1月の初場所は11勝4敗で、敢闘賞を受賞。
場所を終えて向かったのは祖父が避難していた内灘町の避難所でした。
祖父・坪内勇さん:
「久しぶりで照れくさくなってきた」
「他人でなく、自分の孫だからうれしい」
「目の前にきてほっとした」
大の里関:
「お相撲さんをみて喜んでもらえてうれしい」
「次もしっかり準備して、大阪場所で明るい話題を届けられるよう頑張りたい」
その約束通り、3月の大阪場所では11勝4敗で優勝争いに絡み、敢闘賞と技能賞を受賞。
この夏場所で三役入りを果たします。
「初めて髪の毛を縛って、髷を結ってみて、ほんとにいよいよこれからだなという気持ちになりましたし、お相撲さんにようやくなれたなと思います」
そして迎えた新小結としての夏場所。
所要7場所史上最速での優勝を果たしました。