“玉砕の島”テニアン 生き残った90歳の記憶 NEVER AGAIN つなぐヒロシマ
テニアン島には1万5千人の日本人移民が暮らしていました。太平洋戦争の激戦地となり多くの犠牲者が出た島でもあります。テニアン島での戦争を生き抜いた女性が沖縄に暮らしています。
■エイサー
♪ドンドンドン♪
旧正月が明けた1月30日。
♪ウリサァサァ~ イヤァサァサ~♪
沖縄では、仕事始めの儀礼として「ハチウクシー」という行事が行われます。新垣光子さんは毎年、「ハチウクシー」で琉球舞踊を披露しています。
■♪ハイビスカス
沖縄県 中城村です。光子さんは6歳のオスネコタマと暮らしています。
★光子さん
「だっこ だっこ」「重いんだよね はい」「かわいい かわいい 」
光子さんの生まれ故郷-。それは、沖縄のはるか南。
旧南洋群島に浮かぶちいさな島。テニアン島です。かつて日本人が暮らしていました。
これは、テニアン島にあった日本人が通う小学校の写真です。光子さんにテニアン島での日々を聞かせてもらいました。
★新垣 光子さん
「テニアンに生まれて。マルポ国民学校に入って。だいたい(同級生が)50人くらい いるなぁ」
当時、南洋群島は日本が統治していました。
テニアン島には農地を求めて、約1万5千人の日本人が移住。その大半は沖縄県民でした。
■♪戦争映像
太平洋戦争がはじまり、アメリカ軍はテニアン島を攻撃します。
アメリカ軍にとってテニアン島は、爆撃機・B29が日本本土へ空襲をおこなうための重要な拠点でした。この戦いに住民たちも巻き込まれました。
■戦争映像
光子さんの家族6人も、追い詰められ集団自決を覚悟します。
★新垣 光子さん
「照明弾が夜あがったらふせたり。そこにいっぱい人が死んでいるんですよね。そのまま 死体をまたいでうちのおばあさんが。見たでしょう、あんなにして倒れて死んでいる人に踏まれて。どうせ自分たちも死ぬんだからみんなで身投げ 海に死にに行こうと。もう子どもだから、親の言うことをついてはいったんだけど、こう崖みたら人がいっぱい浮いている。これ見て 私死なないと言って山の奥に逃げたら、うちの家族も私の名前を呼んで私についてきて6人家族みんな元気でした。これだけうちのおばあさんがいつも言っていた。あんたのおかげで海に落ちないで助かった。みっちゃん ありがとうねって。海にポンポン人が浮いてるの見たら、怖くて」
民間人と軍人あわせて約1万5000人が亡くなりました。光子さんの同級生も半数以上が犠牲になったそうです。光子さんと家族は一命を取り留め、捕虜となりました。
収容所で過ごす日々…。一人の男性から聞いた話が忘れられません…。
★新垣 光子さん
「漁師 いつも海に行くおじさんがいたんですよ。男の子4人と奥さんと5人崖に向かって投げて、自分も海に落ちたけど漁師だから泳ぎが上手だから、浮き上がってきて3回目には死ねないで捕虜になった。敵が殺していない。自分が(家族を)殺したんだよとおじさんいつも泣いていた」
テニアン島に基地を構えたアメリカ軍は日本本土への空襲をしかけます。そして原爆を搭載し広島・長崎に向かったのです。
★新垣 光子さん
「B29が飛んでいるのは(収容所から)見たんだけど。ただ戦争に行くとしか思っていないんですよ。10年前にテニアンに行ってはじめてコンクリートの穴があってそこから原爆をいれて飛行機に載せて原爆を積んで広島に向かったんだよって聞いた」
★記者
「ご自身が生まれた ふるさとテニアンから広島、長崎に原爆。どう思われたかなと」
★新垣 光子さん
「原爆を落とさないといけなかったのかな。いっぱい人が亡くなってテニアンはよかったねと言いました。(テニアンは)敵の玉にあたって亡くなった人がいた。「(テニアンでは島民)全体が亡くなってないから向こう(広島 長崎)と比べてテニアンはよかったねと友達同士と話しました」
中城村久場崎です。
終戦後、テニアン島から沖縄に引き揚げてきた人たちが上陸しました。光子さんもその一人です。
★新垣 光子さん
「沖縄ってところはこんなところね 寒いと知らないから。3月だから寒かったんですよ。沖縄寒いからまた南洋に帰ろうって言った」
■海
★新垣 光子さん
「戦争のことを考えると亡くなった人たちはかわいそうだな。生きていれば私より元気だったかなと思ったりする。自分は恵まれて、この歳まで(数えで)91歳まで生きています」
はるか南の島、テニアンで生まれた新垣光子さん。つらい記憶を抱えながらもふるさとへの思いは募る、戦後80年です。
【2025年2月19日放送】