【豪雨4年】思い出は堤防の下に 4年の思いは日記の中に 故郷離れざるを得ない住民
球磨村に住む中神ゆみ子さん(74)。熊本豪雨から4年間、手帳に思いを綴っています。
(中神ゆみ子さんの日記)
「7月4日、未明から降った雨は、球磨川の水が予想を遙かに超えて家を飲み込み、国道まであがった」
球磨村では熊本豪雨で25人が亡くなりました。中神さんが暮らしていたのは、球磨川のそばにある茶屋集落です。家ははん濫した濁流に飲まれました。ふるさとが変わり果てても、中神さんは避難先から茶屋に通い続けました。
■中神ゆみ子さん(2023年)
「どうしてもここへ来たいんですよ。ここへ住みたいんですよ、私は」
再び茶屋に住みたい…中神さんは日記に願いを書き続けました。しかし、76人いた集落の住民は、それぞれが苦渋の思いで再出発していきます。人と人との結びつきが強かった茶屋の人たち。そのほとんどが、ふるさとを離れざるを得ない理由があります。
(中神ゆみ子さんの日記)
「もうすぐあの日が、7月4日が来る。茶屋もすっかり変わってしまった。何軒もあった家の跡は前の堤防の高さほどに土が盛られ、芝を一枚一枚植えていく建設現場の人の姿があった」
4年前の球磨川のはん濫で、多くの家屋が被災した球磨村渡の茶屋集落。中神ゆみ子さんが、かつて暮らしていたその場所を訪ねると…。
■中神ゆみ子さん
「全く昔の面影がなくなりましたね。自分たちが住んでいた所がこんな風になるとはね」
Qもうここには住宅は建てられないってこと?
「建てられませんね」
国は新たな水害に備えるため、去年の9月から茶屋集落に「引堤」という新たな堤防をつくっています。この計画によって、多くの住民がふるさとを離れざるを得なくなりました。
それでも中神さんには、割り切れない思いがあります。
■中神ゆみ子さん
「周りから、あんたはいつまでもそういうことばっかり言ってって言われるけど、今の私にはここへ帰ってくること以外は考えられないですね。自分の人生はここで終わると思っていたので。一生は」
去年の春、最後に撮った集合写真。もうみんなで暮らすことはできません。
中神さんにとって、かつてのふるさとを感じる心の拠り所があります。3月に閉校した母校です。校舎は解体され、小さな石碑が置かれています。
■中神ゆみ子さん
「懐かしいですね…」
(校歌を歌う中神さん)
「球磨の平野のひらくるところ、われらが生まれし渡の村ぞ。渡 渡 われらが故郷」
「渡の里ぞ 山も 川も みなわが友よ」
Q熊本豪雨から4年、あなたにとって今も「川は友」ですか?
■中神ゆみ子さん
「生まれ育ってきた球磨川なので、この自然が大きくしてくれた。子どもたちも楽しくしてきた。思い出を持って行ってしまったのが一番つらかったけど、憎しみはないですよ」