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【特集】長年の「偽物説」を覆した多賀城碑 知られざる研究成果

2024年6月24日 12:11
【特集】長年の「偽物説」を覆した多賀城碑 知られざる研究成果
多賀城創建から1300年の今年、その歴史を伝える多賀城碑が国宝に指定されることになった。
この多賀城碑、実は長い間、「偽物」との疑いがかけられていた。

国宝指定に至るまでには偽作の学説を覆してきた知られざる研究成果があった。

「町の歴史を掘り下げると根っこがある」

2023年暮れ、多賀城創建1300年を記念して上演された音楽劇。
現在の多賀城の風景を背景にオペラやモダンダンス、能楽など様々なジャンルを取り入れ、多賀城の歴史を描いた。

演出した志賀野桂一さんは多賀城は想像力を掻き立てる魅力があるという。

演出家 志賀野佳一さん
「町の歴史を掘り下げると根っこがある。豊かな資源があるわけでそこから現代に使えるものを読み解いて表現の材料に使っていく」

奈良時代、蝦夷(=東北の人々)を治めるための拠点だった「多賀城」

「多賀城」は奈良時代、蝦夷と呼ばれた東北の人々を治めるため朝廷が設置した政治的・軍事的拠点だ。
その中心が政治や儀式を行う政庁。奈良の都・平城京を参考に作られた。

その一角にある「多賀城碑」には1300年前の神亀元年=724年に多賀城を創建したと刻まれている。
多賀城の創建年代を記した唯一の記録だ。

その価値が認められ、今年3月、文化庁の文化審議会は、国宝指定を答申。近く正式に指定される。
今年11月には、多賀城の入り口、南門の復元が完成し、公開される予定だ。

知事
「東北の宝、日本の宝だ」
多賀城碑を見にきた県民
「こんなに身近に接しているものが国宝になるのはいい、大事に大事にしていきたい」

「多賀城碑」は数奇な遍歴を辿ってきた

多賀城を研究してきた東北歴史博物館の吉野武所長は、多賀城碑は数奇な遍歴を辿ってきたと指摘する。

東北歴史博物館 吉野武所長
「碑が建てられてすぐ行方不明、消息不明。江戸時代に発見され、数奇な道のりを歩んできた碑である」

建てられて間もなく、行方不明となった多賀城碑、江戸時代に発見されると、松尾芭蕉らが訪れるなど名跡として全国に知られてきた。

しかし明治時代に入ると一転、多賀城碑に疑いの目が向けられた。

著名な学会誌に「偽作説」…覆すのに1世紀近く

「多賀城碑は偽物である・・・」
「江戸時代に仙台藩が作った偽作ではないか・・・」

偽作の疑いだ。

主張したのは喜田貞吉、田中義成ら権威ある歴史学者。
著名な学会誌に偽作説を投稿、真偽論争が沸き起こった。

偽作説の根拠には
・「多賀城創建」がどの歴史書にも記述がないこと
・碑には天平宝字6年=762年に「修造した」と刻まれている点が
不可解であることなどがあげられた。

やがて偽作説が定説になっていった。
偽作の疑惑が晴らされ、「724年創建」が史実になるまで1世紀近くかかった。

偽作説はどのように覆したのか?

偽作説を覆す研究の第一人者、国立歴史民俗博物館の平川南名誉教授。
50年前、研究のため多賀城に赴任した当時をこう振りった。

偽作説を覆す研究 平川南名誉教授
「地元の市民に多賀城碑に案内されて『これ偽物です』とはっきり言っていた。絶対に創建年代を明らかにするんだと」

では偽作説はどのように覆したのか?

先鞭を付けたのは1963年、東北大学の伊東信雄教授らが開始した発掘調査。
当時は考古学の技術が未発達だった時代、多賀城の発掘は全国から注目を集めた。

その後、平川名誉教授も調査に加わり1983年、南門跡から政庁跡に至る道路下から創建時期を裏付ける重要な証拠が発見された。

発掘されたのは「戸籍」

文字が書かれた木片。ある家族の名前の一覧が記されている。
これは当時、普及しはじめていた「戸籍」であることが分かった。

東北歴史博物館 吉野武所長
「多賀城は蝦夷を懐柔して公民に取り込む特殊な任務を持っていた。民衆を支配するために用いたのは戸籍。現代の戸籍と同じように1人1人帳簿に登録してそれを基にして税金を取る」

多賀城創建に先立つ710年、奈良に平城京が築かれ、律令と呼ばれる法律を基に、中央集権国家の建設が始まった。
その際、朝廷が重視したのが戸籍だった。
多賀城創建後、最初の行政事務が戸籍の作成だったと考えられている。

平城京創建が710年、多賀城創建が724年、戸籍の普及した時間などを考慮すると多賀城碑の内容は"史実に矛盾しない"という結論が導き出された。

偽作説を覆す研究 平川南名誉教授
「石碑にぴったり合う。この碑は大変な碑、驚くべきこと。多賀城碑を後に作ることはできない、偽作することはできない」

さらに多賀城が「修造」されたこともわかってきた。
多賀城の中心・政庁の建物が蝦夷による放火、貞観地震の復旧など3度の修造が繰り返されていたことが判明。

そのうちの一つは碑にある通り、天平宝字6年=762年前後と推測される結果になった。(760~780年)

東北歴史博物館 吉野武所長
「反論が出る余地がなくなった。多賀城碑に書かれた年代と矛盾がない。やはり本物ではないかと」

朝廷側は多賀城で蝦夷をもてなしていたことが判明

多賀城そのものの解明も進んだ。
戦前まで、多賀城は朝廷が蝦夷を武力で支配するための軍事施設と考えられてきた。

しかし、発掘で見つかった土器などから朝廷側は宴会などで蝦夷をもてなしたり、また木片を使って文字を習得した蝦夷を役人に登用するなど平和裏に支配を進めていたことがわかってきた。

東北歴史博物館 吉野武所長
「宴会を催していっぱい物をあげて仲良くして懐柔する。通常は戦争はお金かかるので平和裏に仲良くするのがいい」

発掘調査は偽作説を覆してきただけでなく古代史の解明にも貢献。
その結果、国宝への道が切り拓かれた。

偽作説が国宝指定のきっかけにつながった

平川名誉教授は、国宝指定のきっかけを作ったのは偽作説を世に問うた歴史家だと評価している。

偽作説を覆す研究 平川南名誉教授
「偽作説を公にしたこと。それがなかったらこれほど学問的な広がりが深まることはなかった。偽作説に抗することに勇気がいる。でもそれは絶対に打ち崩さないといけない」

多賀城碑国宝指定の裏には偽作説を世に問うた研究者とそれに立ち向かった研究者のあくなき探求心があった。

その精神は今も引き継がれ、発掘調査は今後も続けられる。